黒と赤

錆びた輝きの欠片


 シルヴェスにおいて、珍しくないものが三つある。
 それは白夜の間逆転して続く夜と、凍てつく雪と、魔族だ。
 首都ナハトメレクを占める住人の多くはヴァンパイアであり、彼らは人間の目から見れば美への妄執と強迫観念すら感じられるような建造物を作り、街自体が巨大な芸術品のようなありさまだ。

 にびいろの天から舞い降りる羽毛のような雪が触れるのは、この上なく緻密に計算された曲線と直線の交わりでできた壮麗な聖堂であったり、ヴァンパイアたちの目には必要ないとはいえ、美しいという理由だけで建築に用いられた柔らかな光を発する石を敷き詰めた橋梁で、住人の頬にくちづけることを許された雪は、その体温の無さにいつまでも儚い結晶で頬を飾ることを許された。

 そのナハトメレクの郊外に建つ古い館に、黒き翼を六枚もった影が舞い降りた。

 シルクの衣擦れに似た微かな音をたてて翼が失せ消えると、そこに佇むのは天鵞絨に刺繍をほどこしたの仕立てのよいジレの上にジュストコールを纏った長身の男で、ヴァンパイアとは違い体温のせいで水滴と化した雪の名残を軽く払うと、積もった雪に足跡を残して厳冬にも関わらず咲き乱れる白い魔界の花の庭を抜け、テラスの扉から屋敷の中へと踏み入れた。
 両手で左右に開かれたガラスの扉の向こうは特に温められているというわけでもなかったが、それでも外の空気と隔てられていたせいか、外気が入ってきたことで軽い風が舞い起こる。
 部屋には床に座り込んで画集を眺めるエルフの娘らしき少女がいたが、その空気の動きに物憂げに顔を上げて姿を確かめるや、滑らかに立ち上がってドレスの裾を摘まんで深々と頭を下げた。
 男の地位を考えれば一生向けられなくても不思議ではない親しさをこめた微笑で娘に頷くと、彼女が退いて譲る扉へと向かい、その重厚な樫の扉を押し開く。

 そこは天井までの書架で埋め尽くされた書斎でありながら、雑然とした感じは微塵もなく、太陽や月、星座の運行を模した大小のリングがはまった大きな天球儀がすえつけられており、発光石がいくつも宙にゆらゆらと浮かんで柔らかな光を投げかけ、部屋の主が長い上着の裾を忘れたかのように膝を着いて出迎えている姿を浮かびあがらせていた。
「驚かせようと思って来ているのに、待ち構えて礼をしているとは無粋だな、ルベウス」
 男はそう言って笑うとルベウスに立つように促し、自分は置かれているカウチの一つに腰を下ろした。傍らのテーブルに置かれた燭台を一瞥すると、指を一つ鳴らして炎を点す。
 天使が掲げた松明の先が蝋燭の炎となる意匠で、魔族の屋敷には不似合いだったが部屋の神秘的な雰囲気にはよく溶け込んでいた。
 その揺らぐ光に、ルベウスと同じ漆黒の髪とルベウスよりもずっと物柔らかな印象の横顔が浮かぶ。
 ルベウスは男を見下ろす形になることに苦笑しながらも、招かれるまま傍らに立った。
 彼が聖界に生きた時代から仕える主人は礼儀や作法をうるさく要求することはなく、むしろ誰にでも親しげな振る舞いをするが、その優雅にして端正な挙措を見ていればこちらのほうが男との地位や絶対的な力の違いを意識してしまう。
「御用でしたらご足労いただかなくとも参りますよ、我が君」
「そればかりでは日々退屈するからな。今日はお前に贈り物を持ってきた」
「おくりもの……?」
 ルベウスは訝しげに繰り返したが、悪戯げに煌く主人の紫の双眸にどういう反応が適切が決めあぐねていた。
 主人が気まぐれに何かを寄越すのは珍しいことではない。だが大抵は扱いに困るものだ。
 地位ある高位魔族の主人は、気まぐれに人の祈りや願いを聞き届けて叶えてやるのだが、代償が魂そのものばかりではない。音楽家が名声を欲すれば、その代わりに命尽きたときには才能を引き換えに要求してみたり、剣士で強さを望むならば一生の間に1000人を斬って命を捧げるように言ってみたりするのである。
 ルベウスの主人だけあって、曰く因縁の絡む美しいものが好きだったが、彼の執着する時間は短く、飽きればルベウスに譲ることも珍しくなかった。
「グランディナの司教から手に入れたものだ」
 魔族と呼ばれる存在ならば、至高神を名乗るラ・ハエルを信仰し国教とする国は決して居心地が良いとは言えず、好んで行く酔狂はルベウスとルベウスの主人ぐらいだろう。
 男は上着の内ポケットに手を滑り込ませると、小さな箱の包みを燭台のそばに置いた。
 鮮やかな緑の紙で包装され、ご丁寧に金色のリボンまでかかっている。
 そういえば巷はそろそろ冬至の大祭だ。グランディナならばラ・ハエルの降誕祭として派手な一大イベントとなっている頃合だろう。その時期に店で何か買えば、ちょうどこのような包装をサービスでしてくれるのだが、目の前の小箱はそれを模したもにいすぎず、金のリボンは何かの力を封印しているようだ。
「司教を困らせて何を手に入れられましたか」
「取引したまでだ。彼は司教の座が欲しかった。私はその見返りとして、彼が個人的に後生大事に保管していた落し物を求めたにすぎない」
「魔族と取引するラ・ハエルのしもべとは滑稽な」
「もっとも彼は、私を聖族だと死ぬまで信じていたと思うがな」
 男は可笑しげに喉の奥でやわらかく笑うと、肘掛に肘をついて頬杖をつき、包みを開けてみるようにルベウスに促した。
 金のリボンに触れるルベウスの指先に、ちりちりと痺れるような感覚が走る。
 これは本物の聖族の何からしい。下級の魔族ならば封印を施したリボンがある同じ部屋に入るのも嫌がるだろう。
「その司教が若かりし時、まだ地方の小さな教会の祭司だったそうだ。
 退屈な村人の相手と、奇跡など一度も見ないまま神への信仰を説く自分に疑問を持ち、迷って祈っていたある夜、一人の男が現れた。その男は司教の悩みを熱心に聞き、ラ・ハエルの素晴らしさを改めて説き、最後は共に1時間祈ってくれたそうだ。
 その翌日、男が居た場所にそれが落ちていた。司教は男が気づいて取りに来るだろうと、落し物として普通に保管した。そのまま忘れる程度にね」
 ルベウスの指先が包装の紙にかかり、丁寧に中の箱をあらわにしていく。
 そして恋人に贈る指輪ほどの箱の中に鎮座しているものを見て、ルベウスは思わず失笑した。
「ドラゴンのレンズ」
「心当たりがあるだろう?」
「御意、我が君」
「冬至大祭の……いや、降誕祭の贈り物として持ち主に返してやれ、ルベウス」
 ルベウスは相変わらず悪戯げに笑っている主人に釣られて微笑みながらも、誰に向けるでもないため息をひとつ吐いた。

「で、どうして俺のところに持ち込むんだ、ルベウス」
 デキウスが目の前のテーブルに置かれた包みを見て、無精ひげの顎を撫でながら横目で問うた。
「私よりお前から渡すほうが、奴の心も穏やかだと思うが」
「お前、それ真面目に言ってるなら、本当に心の底からイヤな奴だぞ」
 台詞とは裏腹にデキウスがにやにやと笑った。
「奴は私に裏切られたと思っているからな。それに奴の嫌がる顔をお前は好きではないか」
「確かに退屈はしないが。まあちょっとした暇つぶしにはなる」
 デキウスは箱からドラゴンのレンズと呼ばれるものを取り出すと、コインを弾くように宙に放り投げた。コインと異なるのは、糸のような繊細な銀の鎖がついている作りだ。
「あいつの目は聖戦前に冥王の毒矢を受けて以来、癒えないらしいな。『偉大なるラ・ハエル』のお力をもってしても」
 デキウスは言葉の一部分を思い切り誇張した口調で言うと、鎖をつまんで目の前にぶらさげた。
 くるくると回るそれを見つめながら、ルベウスが独り言のように続ける。
「お前と私で奴の視力を補ってやるために、冥界のドラゴンの目をくりぬいて、そこからモノクルを作ってやった。遠い昔の話だ」
「それを未だに……少なくともここ100年以内まで使っていたとは、泣ける友情話だな」
 デキウスはも鼻先で笑うと、鎖をつまんだまま箱のクッションの上にそっと下ろした。
「じゃあ賭けようぜ、ルベウス。こいつを持って行ってやる。
 あいつが受け取るか、叩き付けるか」
「叩き付ける」
「いいだろう。俺は癇癪を起こしながらも受け取って、捨てるに捨てれない、だ」


 デキウスは笑いながらそう言うと、ルベウスの耳に唇を寄せて「お前が負けたらフィディウスに感謝だ」と囁いてキスの音を一つ残すと、影と共に跡形もなくその場から消えた。

 その後、オディールの大聖堂で教えを説く司祭が、長らく失っていた片眼鏡を再び見つけられたのは、降誕祭の神の奇跡だったという話が広まったとか広まらなかったとか──。

 とりあえず彼が暗い聖堂で不自由なく聖典を読める片眼鏡を手に入れたのは、降誕祭であったという。

 

 

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