黒と赤

黒き真珠の褥(しとね)

 

 シルヴェスの都、ナハト・メレクのはずれに佇む屋敷で、雨上がりの霞の中むせ返るような濃密な花の香りが風にのってかすかに動いたせいで、さらにそれが強く感じられる庭園。
 薔薇のような、百合のような、そして熟れた果実のような甘くどこか官能的な香りが、あたりの空気を支配している。
 一面に白い薔薇に似た花が咲き乱れ、しっとりと雨を含んだ花弁のせいで重たげにこうべを垂れていおり、 日差しというものに色があるならばそれを髪に閉じ込めたような淡いブロンドのエルフの少女が、うつむき加減で花を一つ一つ調べていた。
 咲き乱れる花の美しさが褪せるほどの完璧とも言える容貌に恵まれながらも、表情はどこか欠けたように乏しい。
 片手には象嵌をほどこした天鵞絨張りの小さなを匣を持ち、繊細な指先でそっと花弁を探っては何かを見つけ、それを丁寧に箱の中へと納める作業を繰り返している。
 この薔薇に似た花は本来ならば冥界の果ての荒野にしか咲かず、しかも転生できない人の魂を養分に育ち、果実の代わりに幾重にも重なった花弁の中に真珠を生む。
 真珠と言っても人の世界のそれに似ているだけで、もっと脆く宝石のような価値はない上に、冥界以外の空気に触れると崩れ去った。
 冥界に送られるような魂は転生を許されないほどの穢れを負い、浄化する価値すらないと判断されたような、言わば最低最悪の部類で、それによって生じる真珠はやがて花が枯れ落ちると共に冥界の土に埋もれて塵となるのが常だ。
 冥界の住人ですら近寄らぬ危険な場所に咲くこととも理由だが、殺伐とした世界で振り返るものも愛でるものもなく、それを何かに役立てようと思うものもいなかった。
 だが、美しいものに対するゆえの執着が一つの原因で堕天した魔貴族が目に留め、そしてぜひとも手元で育て庭を彩ろうと考えた。
 魔界の城では百年に及ぶ試みにもかかわらずそれは成功しなかったが、ある偶然から人間の土地で育つことを発見し、なおかつ魔族が好んで飲む酒のようなものになることがわかった。
 聖族ならば天界に生えるアンブロシアという黄金の果実から作られる秘酒でエナジーを得ることもあるが、大半は天界に満ちる精気と至高神への信仰と忠誠がもたらす力が彼らを生かしている。
 しかし魔族になれば元は同じとは言えども、肉を得て維持するためにはもっと具体的なエネルギーが必要だった。わかりやすく血液で摂取するのがヴァンパイアだが、生命そのものの精気だけを得ることができるならば、相手は人間でも植物でも動物でも同じだという魔族も多い。
 その中でもっとも力となりえるのが人の魂だが、双子神のルーフェロの与えた死とラ・ハエルの与えた転生という全界の掟に従って、大半の魂は循環し、魔族の力を強くするほどの数はない。
 ゆえに契約などで手に入れた魂は厳重かつ慎重に保管され、誰もがそれを求めるのだから、魂のエキスというべきものが溶けた酒は珍重され歓迎された。
この花を愛でたいと思った男の気まぐれとある偶然から、今や魔貴族の特別な食卓にはなくてはならないものとなったわけである。
 花を丁寧に一つ一つ調べていた少女は背後からかけられた声にゆっくりと振り返り、所作の洗練された貴婦人のような一礼を返した。
「いくつ実を結んでいた? レジーナ」
 右目を黒い布で覆い隠した主人にそう問いかけられ、少女は箱の中身へちらりと視線を滑らせるとすぐに「20もありますまい」と滑らかな声で答えた。
「悪くはなかろう。その半分が使えれば十分とは言わずとも事は足りる」
「デキウスさまのお屋敷へ?」
 主人が肯くのを見てレジーナと呼ばれた少女は匣の蓋を静かに閉じて側へと寄り添い、四枚の黒い翼が広げられるのを仰ぎ見た。
 とても貴重なものが入った匣を無防備に胸で抱いたままの自分を軽々と片手で抱き上げるのは、何があってもその大切な匣を落としたり失くしたりしないという信頼の証だと自負している。
 主人は特別な感情を持って自分を甘やかしたり優しく接したりしないが、過度に冷淡であったり残酷であったこともない。そして今のような何でもない行動の中に滲む信頼を嬉しく思っている自分に気付いていた。
 それを言葉にしたことはなかったが。

 主人の古くからの友人のデキウスの城はもう何百回と訪れており、今では目新しく気を引くものもない。主人いわく「犬」と呼ばれる子供がいて、城を訪れるご とに成長して言葉数も増えていくのが面白かったこともあったが、今では逆に彼はむっつりと殆どレジーナには声をかけてこない。
 主人に命じられるまでもなく通いなれた庭園を目指し、いつの季節も薔薇に似た赤い花が咲き乱れている場所へとやってきた。
この花たちはデキウスの生命力や魔力を現しているらしく、ある意味、彼そのものの一部でもあった。
 風に散れば血しぶきにも見える花の中に佇み、レジーナは抱きかかえててきた箱をそっと開いた。
 幾千、幾万と咲く花の中から迷うことなく花を選び、さきほど主人の城でしていたのと同じように花弁をまさぐって真珠を取り出す。
 赤い花が生むのは、虹色にも見える黒真珠だ。
 そしてそれはかつてレジーナが埋めた白い真珠の生まれ変わった姿だった。
 同じ花に携えてきた白い真珠をまた埋め込む。
 1年に1度、この作業をする季節が廻ってくる。
 主人が冗談めいた口調で話していたところによれば、白い真珠を産む薔薇は人の血をたっぷりと吸った戦場の土が良いらしく、そこで結実したものはデキウスの闇の力を浴びて黒真珠に、そして魔族がエナジーを得るに相応しい酒を作るためになくてはならない材料になるらしい。
 その酒はまさに血色をしており、香りは白い花のそれに良く似ていた。
 黒真珠を取り出すときや白い真珠を挿し入れる時、真紅の花弁はそれを妨げようとでもするように絡みついて指を包み込んでくる。
 柔らかく、息がつまるような濃密さ。
 なぜか指を振り払いたくなる衝動にいつも駆られるが、嫌悪というほどのものでもなく自分でも不思議だった。
「いつも関心するが、白を埋めた花をよく覚えているもんだな」
 振り返ると、デキウスが主人とともにテラスに佇んでこちらを見ていた。
 レジーナは慇懃に頭を下げ、背を向けて作業を続ける。
「昨年の酒の出来を味わうとするか、ルベウス」
 応じるルベウスの声。 
 レジーナは振り向かずとも、そこで何が起きているか知っていた。
 デキウスの手に空のグラスが現われ、影がどこからともなく酒を注ぐ。
 空気に触れ、酒の芳醇な香りがレジーナのもとまで届く。
 そして、それをデキウスが口に含んでゆっくりと堪能し、満足いくものでなければ中身をテラスに零すのだ。
 別に誰も罰せられることはない。
 誰に不満を告げるわけでもない。
 それよりも全てが合格点だったときに、デキウスが主人へと酒を勧める一連の儀式がレジーナの気持ちをどこか苛立たせた。
 無言で視線だけでルベウスを招き、それに応え、二人の口唇が重なる。
 それだけだ。
 ただそれだけで、それ以上のことは何もない。
 それでも背を向けずにそれを愚かにも目にしたとき、レジーナの指先はいつも赤い花弁に爪を立てる。

 ヴァンパイアさえも引き裂く真珠いろの爪で──。

 

 

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