黒と赤

1周年記念小説 【R-18】

倦怠や退屈という感覚は、淀んでまとわりつく水が何かをゆっくり腐らせていくのにも似て、それを感じると波立たせて足掻きたくなるのが常だ。
 オディール島の黒鳥城は旧五神の一人があるじで一年の殆どを不在にしているが、人間との共存を掲げ助ける姿勢は配下の魔族たちによって護られており、城代と呼ばれる魔貴族たちが人と魔の橋渡しをした。
 行事や祭のない時期は城の一部を人間が見学できるよう開放しているが、やはり1年の大半は魔族が多く出入りする場所で、島内を散策する魔族の仮宿にもなっている。
 この城の城代を務める旧友のよしみで、年中自由に出入りできる部屋を与えられているデキウスは、窓から黒鳥城の沖に停泊する黒い帆船を眺めていた。
 黒の帆船とは珍しい。そして城側の港に近い場所に停泊を許されるということは、なにがしかの魔族なのだろう。海に縁のないデキウスだが、ルベウスの主人は全ての竜の長であり、創世記の水竜なので海の守護者でもあるゆえに、その加護を願って寄港する船を眺めるのはなかなか面白い。
 その黒い帆船から小舟が下ろされ、城の港へと漕ぎ出しはじめた。
「ルベウスはどこに行ったの?」
 どこか憤然とした少年らしい声にデキウスがふりかえると、宗教画の聖族として非の打ちどころのない印象のバールベリスが両手に腰をあてて立っていた。その立ち方、少し高慢に顎を上げた角度、拗ねて甘えた眼差し、不服そうに尖らせた唇までもが、いかに自分を引き立て魅せるか知っている者特有の驕りを纏っており、嫌味などころかその完璧さにむしろ敬意を表して讃美したいぐらいだ。
 デキウスは魔界の七人の大将軍のひとりであるバールベリスに芝居がかった恭しさで身をかがめ、手をそっととって白く滑らかな甲にくちづけた。
 この少年の姿の魔貴族にはそうするのが相応しい。
「アカデミーのほうに出向きましたよ。昨日は知事舎、その前は図書館」
「お前はついていかないの、闇くん」
 聖界時代にバールベリスがデキウスにつけたあだ名で呼ばれ、苦笑する。その呼び方をされるときは、たいていが牽制だ。
「どうせここに戻ってくるのに?」
「自城ばかりに篭ってるのだから、たまには街を愉しもうという気分にならないなんて、つまらない男だと言われるよ」
「お気遣い、いたみいりますね」
 デキウスはくつくつと笑うと、視線をあげてバールベリスを見上げて手の甲をゆっくり舐めあげた。そうすることをお互いが楽しむ間柄だ。彼に個人的に招かれて断れる立場の者は少ない。そしてベッドを温めることを許されている者も少ない。
「ルベウスにはエーヴィアの長兄との晩餐に同伴してもらうつもりだったのに」
 バールベリスは華奢な指でデキウスの顎をとらえると、褒美を与えるようにその唇を親指で撫でた。『エーヴィア』とは聖界時代から有名なテナー歌手の三兄弟で、かつては旧五神が三人を引きたてたが今は揃って魔貴族だ。普段は個別に地上や魔界で活動しており、彼らが揃って舞台に立つのはとても珍しく、芸術祭はその数少ない一度だった。
「約束したのなら、戻って来るでしょう」
「してない。ルベウスが僕の頼みを断るはずないから」
「なるほど。しかし彼が聞いてないなら、戻って来る保証もありませんね」
 デキウスがいつものバールベリスの揺らぎない自信に口端で笑いつつ身を起こすと、今度は身長差でベールベリスが見上げてくる。
「良いことを思いついた。闇くんに仕事をあげよう。ルベウスの居場所知ってるんでしょ? 伝言を届けて。
 日没後、一刻たった頃、旅寓(ホテル)ルクスリアに来てと。
 それと僕からの贈り物だと言って、闇くんが選んだものを添えてね? 今の街にはそういう贈り物に溢れているから、簡単でしょ」
 使い走りに使われようが、否とは言えない。絶対的な地位の違いもあるが、ある程度の親しさもある。デキウスはささやかな不満を表すように、笑いながら肩をすくめた。
「わかっているだろうけれど、僕からの贈り物なんだから、恥ずかしくないものを頼むよ? 闇くんはルベウスに会えるし、僕の伝言を届けられるし、街の散策もできるし、良い暇つぶしになるよね」
 にっこりと極上の笑みを添えられ、デキウスは「お気遣い、いたみいりますね」と先ほどと同じ返事を皮肉と抵抗にして、では、と辞した。


 夏の賑わいと熱気が一息つく間もなく、土月(9月)に入るとアカデミーを中心として芸術祭が開かれる。それは黒鳥城のあるじが五神として、芸術を司り庇護することを由来に始まった祭で、絵画や彫刻はもちろん、音楽や演劇も上演され、この祭に招待されて出品・出演することは芸術家たちにとって大きな誇りであり目標でもあった。
 それだけに、いつかと目指す芸術家の卵たちや、無名の大家のような熟練の職人、あるいはあわよくば誰かパトロンと巡り合えるチャンスが掴めないかと訪れる野心家たちが各々の技術を披露したり、作品を露店に広げるので、それを買い求める人でまたオディールは賑わっていた。
 そんな街中と対照的に、海洋祭、ゾラの大祭と二か月続いた引きも切らぬ献納の列が途切れ、黒鳥城はようやくいつもの静けさを取り戻していた。城主はいつものように不在で、城代の任を与えられた魔貴族たちが夏の間に納められた物品を几帳面に整理し、島内の公の機関や施設各所へと運ばれる手配をする。 人によって神に捧げられたものは、恩寵として人へと与えられる。
 それが古からの神と人の関係だ。魔族と括られる存在になったとはいえ、彼らがかつてと同じように、奪うものであり恵みをもたらすものだと人間たちは忘れていない。そして至高神よりも、確実に身近でもあった。
 その仕事の一端を担うのが旧友のルベウスであり、黒鳥城の城代の一人だ。デキウスはオディールという人間と魔が混じりあった猥雑な街の雰囲気は悪くないと思っていたが、ただ人への配慮として持てる魔力を最小限に抑えて街に出向かねばならないのは少々面倒だといつも感じており、もともと出歩くことよりも旧友と時間を共有することに重きを置くことを思えば、一人で目的なしに逍遥することもない。
 とりあえず今回は伝言を届けることと、ルベウスに匹敵するかそれ以上の美意識を持ったバールベリスが選ぶに相応しい贈り物を見繕わねばならない、という目的がある。贈る相手がルベウスならば、好むであろうものもそこそこ想像がつくのが救いだ。
 魔の気配を限りなく消したとしても、同じように気配を消して人に混じる聖族にまでは隠せない。すれ違う時に険のある視線を時折投げていくのはたいていがそれだ。デキウス自身は毛の先ほども気に留めない代わりに、その反応を楽しんだ。聖戦以後に生まれた聖族は、聖魔と呼ばれる魔貴族たちを恐れる。
 一方で地上への降臨を許されている中級クラスの聖族はもと共に闘った仲間でもある。彼らからすれば至高神の双子の弟で、魔族と呼ばれることを選んだルーフェロは裏切り者であり、理解を超えた異種にも等しい。それに付き従った眷属もまた同様だった。
 ルベウスと何度か散策したこともあって、聖堂付近の中心市街地の構造はなんとなく頭に入っている。首都ロタンはバザールがたつ広い噴水広場を中心に放射状に道が延び、ルベウスは稀に路地裏にある古書と骨董品を扱う店へと足を運んでいた。店主は魔族で、いわく因縁のたっぷりつまった品を色々と取り扱っており、ルベウスの好奇心をくすぐるようだ。それに何がしかの情報収集の拠点でもあるらしい。

 その店をデキウスが知ったのは何年か前にオディールに滞在している時、暇と退屈を持て余して偶然にふらりと入ったのがきっかけだ。
 本の遺体というものがあればまさにそんな感じなのだろうというような、古書が書棚に息苦しいほどつめこまれ、古い革と埃の匂いが乾燥した空気に漂う。そして誰もいない静寂だけが心地よい空間だったが、呼び鈴を押して出てきた店員はその死んだ世界の、鮮やかな色のようだった。
 遠い昔のデジャヴが脳裏によぎる。
 白の世界の赤。
 雪のように白い肌に、艶やかな黒髪、血を滴らせたような紅い唇、そして物憂げに誘ってくる薄蒼の眸。
「いらっしゃいませ」
 女はそういうと、嫣然と口端を吊り上げて微笑んだ。
 デキウスはカウンター越しに女のうなじを掴んで、顔を寄せる。
「人が退屈で死にそうなときに、随分と面白そうなことをやっているな」
 キスできそうな距離にもかかわらず、女は誘うも同然の視線を横に流すようにして見上げてくる。
「どなたかと間違っておられるようですよ?」
「この場で抱きたいぐらいだな、ルベウス殿」
 いくら姿を変えようとも、まとう気配はそうそう変えられない。そしてそれを知り尽くしているデキウスにどんな目くらましも利かなかった。
「お前が来店するとは誤算だった」
「知っていれば毎日来る」
「だろう? だから黙っていた」
 ルベウスの目が面白げに細められる。
「眸はどうした」
「幻影ついでに作ってある。だが私からすれば覆われているままだ」
「誰にサービスしているかしらないが、俺にも提供してもらいたいものだな」
 ルベウスはデキウスの言葉に柔らかく喉を鳴らし、耳元でキスの音を立てた。「これは商売用だ。お前を味わうのはいつもの姿が良い」
「上乗せで楽しませろよ?」
「言われずとも」
 デキウスは鼻先で笑うと、素早く耳朶にキスを落とし、金貨を一枚放り投げた。
 背中に「ありがとうございます」という柔らかな声を聞きながら、店の外へと出る。
 暫くこの古書店に通ってやろうと、含み笑いながら。
 魔族であれ聖族であれ、性別を纏うのは己の自由だ。起源を辿れば人の祈りや想いから得たペルソナが地上の小さな神であり、それらを出自とする者たちは人が望んだ性別を選んで肉体を帯びることをし、更には己に芽生えた個性に合わせて変異した。
 なので必要とあらばその逆の性別を纏うことも、変装するように容貌も変化することができるが、高位のものほど一度纏った肉体を変えない。それはデキウスやルベウスも同様で、魔族に堕ちた頃は面白がって女性体を纏うこともあったが、彼らの基本性別はあくまで男性だ。
 なので女性の肉体を纏ったルベウスは、デキウスにとって最高の退屈しのぎであり、刺激になった。
 その店の常連が冥界に情報を流している疑惑のある貴族と繋がっており、古書店の美女の顔を眺めに来ては、得意げに自分の凄さを自慢するかのように愚かで危険な秘密を漏らして行くらしい。そしてそのためにルベウスは店主の娘を装って、店番に立つことがあるらしかった。
 おかげでにデキウスにとって退屈を紛らわせる一番の手段として毎日通ったため、店主には娘に寄ってくる不埒な男とあらぬ疑惑をかけられ、胡散臭げに追い払おうとされる。
 店主の老人にとってはルベウスの意図など知る由もなく、忙しい時期に臨時に働きに来てくれる娘同然に大事な存在のようで、もちろんその正体が店を贔屓に通ってくれる城代のルベウスだと知らない。そのせいでデキウスに対する素っ気ない態度は、さながら娘を護ろうとする父親そのもので、ますますデキウスの悪戯心を刺激するのだった。


 そこの店主ならばルベウスの好みを心得ているのは間違いなく、稀有な逸品が眠っているのは間違いないが、果たしてそう都合よく目的にかなう品があるだろうかと思いつつも、他にこれといったあてがあるわけでもないデキウスは、そちらに足をむけていた。
 魔族相手の高級店が多いのは、黒鳥城の城下、旧市街だ。ルーフェロの夜の礼服を仕立てる時や公の場で身に着ける装飾品を求める場合ならばそちらに行く。確かに間違いなく最高の品質が手に入るが、デキウスにとっては彼らの礼儀正しい接客が堅苦しくて窮屈なのだ。ルベウスにはお前が奔放すぎるのだと呆れられるが、元々そういう社交の場が面倒で辺境の城に引きこもっているのだ。
 それに数日の仕立てや造形をさせる時間があるならばともかく、バールベリスはルベウスに伝言を届ける前に見繕って手に入れろというのだから、今取引されているものに限る。
 となれば、ルベウスが好む店の扉をくぐるのは当然とも言えた。

 素っ気ない樫の扉の妙に凝った意匠の取っ手を引くと、外の明るさを拒絶するような暗さがぽっかりと口をあける。だが、闇そのものであるデキウスにとっては歓迎されているにも等しいのだが、店主の態度が同じというわけでもない。
 扉の上部に取り付けられたドアベルが、頑固な牛につけるに相応しいような乾いた音を立てて、客の訪れを店内に告げた。
「ルベリアならおらんぞ」
 闇に近い薄暗がりの奥から、老人の声が軋む。ルベリアとはルベウスがここで使っている名だ。
「それは残念、と言いたいところだが承知で買い付けにきた。高貴なお方からの命でな。この辛気臭い店に見合うものがあればいいんだが」
「お前さんに用事を頼むとは、よほど人手不足なのだな、その高貴なお方は。うちの店で手に入らぬようなら、オディール中を探しても見つからんぞ」
 憎らしいほど『高貴なお方』を強調し、フンと鼻先で笑ったが、魔石を入れたランタンが灯ったところを見ると、商売をする気はありそうだ。明かりに照らされて、金色の縦の瞳孔がきらめいた。エルフのように長く尖った耳と、その上から飾りと鎖に彩られた太く捻じれた角が前方へと突き出ている。どの種族でどこの出自なのか知らないが、人間ならば圧倒されるだろう。
 そういえばこの老人の正体を聞いたことがないが、ルベウスのことは城代さまと敬うくせに、貴族の階級的には上になるデキウスには不遜だ。
 ルベリアがその城代さまなのだぞ、と何度も教えたことがあるのだが、老人からはまるで相手にされないどころか、逆に頭がおかしいのではないかというような変な憐みの視線を向けられたことがあるので、真実に気づかせるのは諦めていた。
 老人にとってルベウスが親愛なる城代さまで、ルベリアがたまに手伝いに来てくれる娘のように可愛い女性ならばそれはそれで幸せといってよかろう。
「そのお方から、城代に贈り物をしたいと。美しく、珍しく、唯一無二で、城代を引きたてるものが良い」
 この老人にとって知りうる高貴なお方はルベウスが最高位であり、さらにその上のバールベリスやシャリートなど名を口にするのも憚られるほど尊いお方となるらしいのが面白い。
「おぉ、城代さまにか!」
 不機嫌そうだった老人の顔がパッと輝いた。そして皺だらけの手でこめかみを撫でながら
「古代文字で書かれた装丁の美しい詩集がいいかの。いやいや、ユニコーンの角で作ったペーパーナイフも逸品じゃ。水妖が死ぬ時の泡を編んで作ったテーブルクロス、火竜の子供の皮をなめしてつくた極上の革手袋、冥界の猫の涙を縫いとめた豪奢なローブ、ああ、それとも……」
 などと呪文のようにあれこれと呟いてから何か思い出したようにおもむろに立ち上がると、長いローブの裾を引きずって店の奥へと消えた。

 どこかで籠の鳥が囀る声がかすかに聞こえ、カウンターでは血のように赤い液体が入ったクレプシドラ(水時計)がゆっくりと動いている。商品棚に積まれている羊皮紙の一つに何気なく手を伸ばしたところで、店主が両手に乗る自鳴琴(オルゴール)ほどの箱を恭しく持ってきた。
「骨董ではないが、とっておきのものじゃ」
 老人はどこか得意げに言うと、デキウスの顔を覗き込んでからニヤリと笑い、たっぷりと勿体をつけて関節の浮いた指で蓋を開けた。
 銀糸と銀鎖、そして翼を装飾文様と組み合わせた意匠が、冬の夜のような艶やかな黒の布にあしらわれて畳まれている。触れても?とデキウスが目顔で尋ねると黙って頷き返してきた。
 それは優しく滑らかな手触りの眼帯で、ルベウスが普段着用しているものに比べると、格段に装飾的で繊細だ。額で切り替えのための銀の金具がついており、そこから後頭部で結わえる紐の部分につながるのだが、こめかみあたりからは細い銀の鎖が明らかに装飾だけの目的で下げられている。細かな網目のような力が組み合わされて織り込まれているのを感じるが、魔族には馴染みがないやり方だった。
 目を覆う部分には翼を模した燻し銀のパーツ、そしてちょうど一番深く頬を覆う部分からは涙型の宝石をはめ込める台座だけが残っていた。
 芸術品に興味があって特に造詣が深いわけではないが、長年ルベウスのそばで彼が愛でるものを見てきた程度には、目が利く。それから言えば、文句なしに彼が微笑を浮かべるであろう品だ。
「おあつらえ向きだな」
「エルフの職人がヴァンパイアの都、ナハトメレクで作っておる。芸術祭にどうしても行きたいので、路銀がわりにならぬかと二か月ほど前に預かった。
 技法などは知らぬが、作り上げるのはもちろん素材の入手が困難らしく、滅多と出回らぬ。
 だが、コレ自身が譲渡される先を選ぶので、わしはこういうものがあると教えてやるだけじゃな」
「選ぶ、とは?」
「頬にかかる部分に、宝石をぶら下げる小さな台座だけが残っているだろう? そこに嵌める石を選ぶ。選んだ者にも贈られる者にも相応しいとコレが思えば、宝石は台座に嵌まる。そしてその選べる機会は一度だけ。やり直しはできぬのじゃ」
「そんな面倒くさい石など、つけずともよかろう?」
 デキウスは小馬鹿にしたように笑うと、小さな涙型にカットされた宝石がずらりと鎮座するケースを目の前で開けて見せた店主に、指先で払う仕草をした。
「別に呪われるわけではないが、無理に持って帰っても持ち主が死ぬような状況にもっていくだけらしいぞ」
「それは普通呪いと言うがな。むしろそこまで勿体をつけて身を引き渡さない以上、手に入れると何か有益なことをもたらすのだろうな?」
「相応しい石に見合ったものを。憎しみかもしれぬ、敬愛かもしれぬ。それはわしの知ったことではない。
 わしは城代さまに相応しいと思って試してみたが、モノが納得するものを選べなかった。もしお前さんがみごと引き当てるなら、喜んで譲ろう」
 どうせ無理だろうが、というのを言外に漂わせて店主は宝石のケースを顎で示した。無理だろうという態度を見せられるとやってみたくなるのがデキウスだ。
 それでもやれやれという態度で、水滴型にカットされた小さな宝石たちを見おろした。
 名と出自に由来するならルビーだ。同種のサファイアでも良い。目の色に合わせるなら薄い蒼。贈り主のバールベリスを意識するなら、彼の瞳の色に合わせた色の深いトパーズでもよかろう。
 あるいは選んだ自分を主張するならば、黒の宝石だ。
 さて、としばし腕を組んで頭を傾げ、最後にどれでもない石をつまみ上げた。
「意外な石を選んだな。良いのか、それで?」
「かまわぬ。手に入らぬなら、後日その職人とやらを探し出して、個人的にあうものを作らせるまでだ」
「お前さんらしいな」
 店主は苦笑しながら単眼鏡を右目に嵌めてデキウスから宝石を受け取ると、鑷子(せつし)で挟んでぴったりの形の銀の台座におろした。
 一瞬、二人の視線がそこに釘付けになり、何も触れぬのに台座の爪が石をがっちりと掴んだときには、二人ともが瞠目した。
「おお、なんということだ!」
 歓喜と失望と嫉妬が混じったような声を上げて、老人は両手をわななかせた。
「どうやらお気に召したようだな。とっとと包んでくれ。俺の用事はこれをルベウスに渡すまでだ。代金は?」
 急かされるまでもなく、店主は眼帯を丁寧に包み、さらには煤けた印象の店内では眩しいほどの艶消しの銀の包み紙で包装し、それにルベウスが普段纏う服のような青の細いリボンをかけた。その間も何度も「なんということだ」「よりによって」とぶつぶつと嘆きのような声を上げる。
「とんでもない代金をふっかけてやりたいところじゃが、絶対無理だと思っていた石を選べたお前さんに敬意を表して、無料でくれてやるわい!」
「そうか。では手間賃だ」
 本当に悔しそうに言う老人が面白くて、デキウスはニヤリと笑って包みを受け取ると、店の一年分の売り上げに匹敵するほどの銀貨がずっしりと詰まった小さな袋をカウンターに放り投げて店を出た。


 時間は石畳に長い影が延びる夕刻になっており、夏を過ぎつつある季節の日没は毎日早くなりつつある。バールベリスの伝言を伝えるならそろそろ急いだ方がよさそうだと、デキウスの魔力の一部である影でルベウスの気配を辿ると、アカデミーでの雑事は終えたようだった。伝言を伝えるならば影伝いで済むのだが、と思いつつ呼びかける。いつもどおりの素っ気ない口調で「何だ?」と返ってきて、思わず口角が上がった。
「バールベリスから伝言と預かり物がある」
「どちらも急ぎか?」
「そうでなければ俺が使われるか?」
「伝書鳩がわりか。ご苦労だな」
「可愛がっていいぞ?」
 デキウスが面白がって喉奥で鳩を真似た声を立てて笑うと、呆れたような溜息が返ってきた。
「旧市街に移動中だ。医療ギルドと叡智ギルドに寄って、最後に文書院に行く予定だから、どこかで捕まえろ」
「随分と予定が詰め込まれてるが、それだと城に戻るのは確実に夜だな? どれか後日にまわすか訪問時間を切り上げたほうが良いぞ」
「補佐の一人が芸術祭の公演のため不在だから仕方がない。
 なぜ切り上げる必要が?」
「バールベリスが晩餐への同席をご所望だ。日没後一刻のころ」
 一瞬の間。
 当然だろう。今から回ればその一か所がせいぜいだ。
 普通ならば舌打ちをしても不思議ではない無茶な要求に、ルベウスは短い沈黙だけで「わかった」と冷静な声で答えを寄越した。
「どこの晩餐会だ?」
「彼が個人的にエーヴィアの長兄と食事するらしい。場所はルクスリアだ」
「ではお前の預かりものとやらもそこで受取ろう。今から直接向かう。着替える時間などを考えるとあまり余裕がない」
「了解」
 デキウスはつながった影を通してルベウスにキスを送り、相手の微かに笑った気配に満足した。

 デキウスが旅寓(ホテル)ルクスリアに到着したのは日没間際で、そのままいつもルベウスが利用する部屋へと向かった。ルクスリアは魔貴族の城館が立ち並ぶ旧市街に建つ高級旅寓で、利用する連中の地位も滞在費もオディール島内で一番だ。
 見知らぬ存在が不法に侵入を試みるものに対する障壁はあるが、物理的な錠もせず、ルベウスの不用心さと無頓着さは聖界時代と変わらないなと扉をあけて贅を尽くした寝室へむかうと、風呂を済ませ晩餐用に着替えているルベウスがいた。まだシャツの裾を出したままで、足元も裸足だ。椅子に黒に近い臙脂の上着がかけてある。
 伯爵位ならば常に使用人を従えて、今頃は数人に傅かれて着替えをさせてもらっていても不思議ではないのだが、ルベウスもデキウスも割とそのあたりは無頓着で、自分の城にいないときはお互いが面倒をみることが多い。そしてその相手がいないならば、適当に自分で対処した。
 その適当度合いは二人で随分差があったが。
「忠臣、ご苦労だな」
「伝書鳩が来たか……」
 ルベウスは袖口のカフスを留めながらデキウスのそばにやってくると、軽く唇に触れる程度のキスを挨拶に寄越した。髪に触れると毛先がまだ濡れており、香水を纏う前の清潔な石鹸の香りがする。デキウスが腰を抱き寄せると、脇腹をくすぐるようにして「時間がない」と腕から離れた。
「で、届け物とは?」
「これだ。急な頼みごとを聞いてもらうかわりの礼じゃないか?」
「バールベリスにしては珍しい気遣いだ」
 デキウスがキングサイズのベッドに腰を下ろしてサイドテーブルに銀の包みを置くと、その包装を見て軽く眉を上げた。恐らく自分が出入りしている店の商品だと気づいたのだろう。
 重さがあまりない包みを開けて、軽く瞠目するルベウスの横顔を愉しむ。
「まさかこれを買い取れるとはな……」
「見覚えが?」
「もちろん」
 ルベウスは貴重な芸術品を扱うような丁寧な仕草で眼帯を広げ、その細工をしげしげと見つめた。
「自分が身に着けるというよりも所蔵したかったのだが、こうやって贈られるということは、晩餐に着けて来いということか」
「手を貸すぞ」
 デキウスが手招くと、しばし考え込むような表情をしてから黙って新しい眼帯を差し出した。例え相手がデキウスであろうと、右目に関することについてルベウスの反応はデリケートだ。なのでそれ相応に敬意をもって応じているつもりだが、自分の個人的な欲望を封殺しないのがデキウスだった。
 ルベウスが眠りに落ちるとき、あるいは真闇が訪れる極夜の季節、聖族時代のルベウスを懐かしむわけではないが、何にも覆われない顔を存分に見たくて、眼帯の封印を解くことがある。そんなことをルベウスが許すのは、主人を除けば唯一デキウスだけだ。
 横着とも思えるデキウスの望みは、その実ルベウスの右目が万が一でも何か捉えるような状況に陥らないようにとの細やかな配慮もしており、ルベウスはそれを渋々ながら信頼しているのだ。
 眠っている時間でもなく、デキウスしか見通せない真闇でもない場所で、ルベウスの右目を封印した布を解くのは限りない優越だと知っているからこそ、ルベウスはその愉しみを旧友に与えた。
 そして何より、堕天した直後からしばらく、神の呪いにより全ての朽ちた姿を映す右目に絶望して、再生をするとわかっていながら眼球を抉ろうとするルベウスを留めるために、魔力の闇で己の目と繋いだのはデキウスだ。
 おかげで、その後もしばらく自傷をやめられなかったルベウスが眼球を抉るたびに、デキウスも苦悶に悶えるよな痛みを共有する羽目になった。しかしルベウスは自分の精神的な苦痛よりも、旧友が目を繋いだせいで受けなくても良い苦痛を受けることのほうが耐え難かったらしく、衝動で抉り出すことをやめるように変わっていたのだ。
 
「少し屈んでくれ」
「手早く頼む」
「御意」
 ベッドに腰掛けたままルベウスを見上げると、僅かに含み笑いをしてデキウスをまたぐように片膝をベッドについた。
 普段愛用している漆黒の眼帯が結わえてある頭の後ろの部分を解くと布が落ち、伏せられた目が現れる。左目は冷静に薄青の視線をデキウスに向けているので、何となく落ち着かない気分にさせた。伏せられた片目に軽くキスを落す。
 デキウスが選んできたバールベリスからの贈り物は、ルベウスのお気に召したらしい。いや、気に入らないはずはないというほどの自信はあった。それが手に入れられるかどうかというのが問題であっただけで。
 細い鎖と細工が髪に絡まないように気を付けながら、新しい眼帯を目にあてて、少しきつめに紐を結ぶ。そして改めて髪を手櫛で整えてやり、デキウスが「いいぞ」と言うと、柔らかな表情になって微笑を見せた。
 髪を梳くデキウスの褐色の手をとって手のひらに唇をつけ、そのまま左の親指に嵌めた指輪にくちづける。この指輪に嵌められたルビーも、デキウスが身に着けなければサファイアで、ルベウスが主人の前でかつて抉りだした右目を、主人が酔狂に宝石にしたものだった。なので右目本体ほどではないが、今でも薄くルベウスと繋がっている。
 ルベウスは肩に手を置いて顔を近づけると、どうだ、というように頭を傾け
「装飾が多くて、普段には使いにくそうだ」
 と、チリチリと微かな音を立てる鎖に目をやった。
「だが引き立つ」
 デキウスはそういいながら、ちょうど頬に伝う涙のように見える、自分が選んだ宝石を指先で触れてそのまま頬から顎へと撫でる。
「バールベリスには礼を言わねばな。お前に品を選ばせたことに」
「なぜそう思う?」
「ピアスと同じ色だ。青い月長石(ムーンストーン)」
「なるほど。確かにそういう選び方をした」
「だろうな。お前らしい」
 ルベウスが低く声を漏らして笑い、肩に乗せた手に体重をかけてきたのでそれに抵抗せず、ベッドへと沈んでルベウスを見上げた。
 艶然という言葉が似合う微笑。仕事で寝る相手に向けるものではなく、そのまなざしの底にデキウスを求める欲望の火が熾火のように燻る微笑だ。そんな笑みを自分だけに向けられる優越は、聖界時代からずっと続いている。
「月の石の効能を知ってるか?」
「気分を落ち着かせるとか、何とかだったか。お前が癇癪を起して、気に入らない旅寓(ホテル)の備品を壊すのが減ると良いな」
 デキウスが揶揄するように笑って言うと、ルベウスは片眉を上げて冷たい視線で一瞬見下ろしてきたが、少し体温の低い手を開いたシャツの胸に滑り込ませ明らかに意味ありげに撫でる。
 それに応えるように、視線を合わせたままシャツの裾から肌に手を這わせると、ルベウスはデキウスの耳元で「時間がない」と甘く囁き返し、うらはらに熱を煽ろうとするかのように舌を挿し込んだ。
 長く生きた時間、二人とも依存性や習慣性のあるものに溺れたことはないが、心と体が加速しながら競い合うようにして渇望するものがあるとすれば、互いの肉体とそれが生む快感と、翻弄されるように果てた後に味わう充足だ。煽る快感も焦らす駆け引きも、上り詰める瞬間も、全てを同時に貪りたいという狂気の欲。
 何気なく触れた手や肌の感触をもっと味わいたくて、頬を寄せ、脇腹を這う手のひらの熱を愉しむうちに、キスを重ねて更なる熱を求める火が点くのは恐らくお互いだけだろう。
 少し腰を上げて貪欲に食むようにくちづけてくるルベウスの舌に応えながら、双丘を撫でてお互いの体の間で熱と硬さを増す欲望に笑い
「早くしろと?」
 と囁くと
「戻って来るまで待て」
 と笑いを含む甘い声が返ってくる。
「待っているような俺をお望みか」
 ルベウスは返事の代わりに黙って舌なめずりをすると、鎖骨に軽く歯を立てて跡を残す様な強いキスをした。
 自分の体温より低いルベウスの肌が、手のひらで触れている部分からじわりと混じりあっていく離れがたさと、石鹸の残り香にルベウスのもつ独特の花の香りが混じって立ちのぼる優越。
 言葉でどれほど否定しようが拒絶しようが、何より雄弁なこちらを求める欲望だ。
 たとえ情交のひとときであれ、独占するのはもちろん、独占されるのが心地良いと感じるのは、今ここで目に映る相手だけだった。
「せっかく着替えた服が皺になるのは御免だ」
 ルベウスがそう言いながらデキウスから降りようと身じろいだところで、腰を両手で掴んだが、ルベウスはその手に優しいぐらいの仕草で触れて重ね、自らの纏っているものを脱がすように促した。
 そんな意図のやりとりは一瞬に伝わるぐらい、短時間でせわしなく情を交わすことなど何度もやっている。
 脱がせることをデキウスに委ね、ルベウスは肌蹴た胸を重ねて深いキスをしながら、既に十分すぎるほど熱を帯びたデキウス自身を愛撫するのをやめない。
 そして唾液でお互いを繋ぐ唇を離し、薄く開いたルベウスの口腔に指を挿し込むと、舐めろというように舌と上顎をくすぐった。舌先が指と指の間を擽り、関節に軽く歯をたてるのを、二人とも熱に浮かされたように目を覗き込みあう。
 その指を引き抜いて己を受け入れる場所に穿つと、ルベウスは微かに薄青の片目を見開いて甘く睨み、微かに吐息を漏らすとデキウスの指先が探り当てる快感を追って腰が柔らかく動いた。唇が甘くとけるように開いてそのまま笑みを形作る様子は、見上げていてもなまめかしい。
 共にが浅く息を漏らす回数が増え、ルベウスが喉を鳴らす。触れている肌の温度はさらに上がっているようで、いまや石鹸の残り香は霧散していた。
 ルベウスを膝立ちにさせて熱をあてがうと、ルベウスは熱に浮かされたような目でデキウスを見おろし、どこか愉しむように挑戦的な笑みを見せて、おのれの体重をかけてゆっくりと身を沈めた。
 どこよりも熱い快感がデキウスの欲望を呑み込んで閉じ込め、その濃密で淫らな内奥の抱擁に喉が鳴る。
 繋がったまま唇を重ねると、ルベウスの小さな牙に舌を押し付けて血を滲ませ、更に彼の欲望を煽ると、それは淫猥に腰を動かすことでもっと深い快感を得ようとする反応で返ってきた。
 甘さよりも獰猛な激しさでキスを続け、お互いの求める快感を得ようと身体を撓らせる。
 キスを重ねる水音と、混じる精が肉壁を抉る湿った音が混じり、二人の快楽に乱れる声がさらに溶けあった。
 新しい眼帯の装飾の鎖が跳ねて、囁きのような小さな金属音をたてる。
 デキウスが深く強く突き上げるごとに体が揺さぶられ、ルベウスは肩に爪を立てた。
 穿ち、突き上げるのも、そこから奔放に深い狂酔を得ようとする動きも、今感じている眩暈がするような快感も、その先にある全てを手放し全てを抱く一瞬も、お互いの肌が混じりあうような感覚も、ただ相手を喰らい尽くすことで成就する欲。
 デキウス、と耳に口をつけて囁きを注がれ、飢えたような甘えたような、そして優しく凶暴な何かを秘めた声音に、身体の奥から激しくこの男を味わいたいという熱が膨れ上がる。
 それを短い時間の許す限り長く、そして性急に奪い合った。
 それぞれの名を、快楽の喘鳴のなかに混じる睦言のようにしながら。


 短い情事のせいで遅れたわけではなかったが、完璧な身じまいをしてバールベリスの指示した部屋にルベウスが訪れると、すでに二人はテーブルに着いていた。
 三大テナーの一人、三兄弟の長兄、漆黒の獅子ことセーブル・エスピネルは、ルベウスの同僚でもあるエリティスの兄で、お互いに顔を見知っており、何度か親しく食事をしたこともある。二人は軽く視線を交わすと、会釈した。
 自信家で洗練されており、そこからくる尊大さすらを魅力的に見せるのを心得た男だ。末弟のエリティスに対して厳しい要求と努力を求めるが、その実、微笑ましいほど溺愛している。
 ルベウスが黙礼して、瞳の色に合わせた青いブラウスに白いスーツを着たバールベリスのそばに行くと「気に入った? それ」と尋ねてきた。上目遣いに探るように、そして面白がるような眼差しでルベウスを見つめてくる。
「日常に使うには少々煩わしい部分もありますが、芸術品として申し分ない。厚くお礼を申し上げます」
「うん、気に入ってくれたなら良かったよ。今度僕の部屋に来る時もつけておいでね?」
 それはバールベリスを抱くときに、という暗喩だ。
「もちろん」
 ルベウスは薄く微笑んだ。バールベリスとの付き合いはデキウスとのそれよりも長い。彼は隠した本音の部分でルベウスの主人であるシャリートを慕っているが、それをすべてルベウスに置き換えて想いをぶつけてくる。
 しかしそれも、彼のお気に入りのゲームの一つに過ぎない。例え一番お気に入りであれ、ゲームには変わりはない。
「ねぇ、セーブル。月の石の意味を知ってる?」
 突然に話をふられ、セーブルは一瞬驚いたように瞬いたが、持ち前の落ち着きと自信ある態度は微塵も揺らがなかった。彼は歌手というよりも王のような風格がある。
「インスピレーションや創造性を高めるとか、洗練された愛や喜びをもたらすと聞いたことがありますね」
 聖族も魔族も人間をも魅了する滑らかな声が語ると、それだけで詩的に聞こえるのが不思議だ。
「蒼い月長石(ムーンストーン)はね、恋人たちの石だよ。永遠の愛を象徴する。僕の恋もあやかりたいね、大好きなルベウス」
 バールベリスがくすくすと笑い、言外にデキウスが何も知らずに選んだ石を揶った。白い手を伸ばして、ルベウスに身を屈めるように促すと、さきほどデキウスがしたのと同じ仕草で、眼帯をした右のこめかみから後ろへと髪を梳きながら愛撫した。そして耳元で
「なまめかしくて、ゾクゾクする。憎らしい」
 と、まるでこの部屋に来る前のことは知ってると言わんばかりの言葉を笑いを滲ませた声で小さく囁くと、可愛らしくキスの音を小さく立てる。バールベリスは誰も気づかないような小さな変化に目敏いので、ルベウスは直前のデキウスとの行為が隠しようもないことをあらかじめ承知していた。
 誰が見ても隙も乱れもない冷静なルベウスだろうが、バールベリスだけはまだ身の内に残る熱と欲望に気づくのだ。もっと言えばデキウスと初めて交わったのは、聖族の頃に地上での任務の折、バールベリスの神殿だった。つまり、その時も筒抜けだったのだ。
 今更隠すようなことでもない。それにバールベリスが面白半分にデキウスを寝所に招いていることもお互い知っている。
 ルベウスは「今度同じことをしましょうか?」と、こちらも声を潜めて内緒話のように囁いた。
 バールベリスが約束だよ、とにっこりと微笑む。
 そしてルベウスに隣の席に着くように促し、給仕が満たした黄金色のグラスを掲げた。
「ではエーヴィアの公演の成功を願って。そして恋人はいないくせに、恋人たちの石が似合う誰かに乾杯」
 セーブルがちらりとルベウスを見やり、ルベウスはその視線に軽く肩をすくめて応じると、二人とも唱和の代わりにグラスを掲げた。デキウスによって選ばれ、不思議な力を宿す細工がその石を受け入れた理由を二人が知ることはないのだろうね、と思いながらバールベリスは呆れながらも愛しげな視線をルベウスに向ける。

 ルベウスの頬に零れた涙のような月の石が、燭光をうけて蒼く煌めいた──。

 

1周年記念

 

【END】