黒と赤

お題『片思いなんて損してる』

 ルベウスはジレの隠しに続く銀の鎖を引き出して懐中時計で時刻を確かめると、竜頭部分を押して音を立てずにそっと蓋を閉めた。指が離れた竜頭に埋め込まれたルビーが、窓から入ってくる夕刻の赤い光を反射して一層紅く光る。
 デキウスと落ち合う約束にはまだ半刻ほどある。それまでに先ほど資料を渡した同僚が、裏づけできる別の資料を探し当てて戻ってきてくれれば良いのだが、と小さく嘆息して紫檀の飾り棚にもたれて大切な書物を痛めぬように最小限にした細い窓の外を見遣った。
 黒鳥城の片隅にある個人的な資料室の半分以上は大人の背丈ほどあるキャビネットと見上げるほどの書棚で埋まり、室内はさながら迷宮だ。個人的といえども、知人が古文書や人界で禁じられた呪歌を綴った羊皮紙を求めて閲覧を望めば断ることはないが、旧五神の一人であるシャリートのお気に入りの子飼いの一人という、周りから見れば気安くない立場のせいか、仕事をする上で必要にならない限り誰かがそれを娯楽や興味で望んでくることも滅多となかった。
 だが、先ほど資料を渡してやった同僚はそういう意味では知的好奇心を持っている。おずおずとではあるが、興味を持ったものはとことん追求していきたい姿勢を見せた。その部分が、ルベウスが城代の補佐へと推薦した理由でもあり、事務作業に長けているとは言いがたい多少のもの覚えの悪さから救っている。
 それゆえに個人的な多少の時間を割いてやるのも苦痛ではない。確かに苦痛ではないのだが、いつも溜息が出る程度には次の反応が遅い。
「出来の悪い教え子は戻ってきたのか」
 耳元で囁かれるような声。
 黒い布に覆われた右目が羽で撫でられた程度の違和感を覚え、窓の外から細く差し込む夕陽でできた己の濃い影が揺らぐような気配に口端を上げる。
 ルベウスが再生し続ける呪われた目を抉ることを止めさせるために、デキウスが己の痛覚と影を同じ右の目に繋いだ絆を通しての囁きだ。
「まだお前との約束は半刻ある。待ってやれ」
「待つのは構わん。だが待つ場所は俺が決める」
 笑いを含んだ囁きは息遣いと馴染んだ香水の僅かな香りを伴って、ルベウスを背後から抱きしめた。
 あたかも書架や家具の作る闇から生まれたように現れたデキウスを、ルベウスは鼻先で笑いながらその抱擁に背を預ける。自分も決して華奢な体格ではないが、旧友の褐色の腕に囚われることに慣れて久しい。その手が喉元に這いのぼり、シャツの釦を一つ二つと外していく。
 ルベウスは苦笑しながら手にしていた古い羊皮紙の巻物を棚に戻し、身を返してデキウスへ間近に向き直った。
 赤を含んだ外からの光を受けて、深紅の眸がいっそう赤い。自分を見る双眸と先ほどの懐中時計の竜頭のルビーの色が重なって見え、送り主の旧友は紅玉由来のルベウスにちなんで選んだのか、それともこの目を思い出させるために選んだのかとふとした疑問がわいて、それが微笑になった。
「呆れたか?」
 デキウスが相変わらず面白げな口調で耳元で囁き、ルベウスの笑みを揶う。 ルベウスは夕闇の帳が下りていく薄暗い室内で晒されて行く自分の肌が、妙に白く見えると他人ごとのように見下ろした。
「いつものことだ。間違いなく彼が来るぞ」
「不都合でも?」
「気まずさと、どう反応すればいいのか戸惑って身動きできなくなる」
「相手がな」
 デキウスが喉奥で笑うのを聞きながら、ルベウスは相手の顎から喉にかけてを擽って、唇が触れそうなほど顔を寄せた。
 そして視線をあてたまま頭を僅かに傾げると、濡れた舌先で軽くデキウスの口唇を舐める。
「煽られているとしか思えないんだが?」
「まだ約束まで少しあるから、待っていろというだけだ」
 ルベウスが薄蒼の眸を細めて笑うと、デキウスが身を屈めて肌蹴たシャツから覗く鎖骨に唇をつけて甘く吸う。その漆黒の髪を長い指で梳きながら、何気なく視線を上げた先に、戻ってくるのを待っていた同僚の赤い髪を見つけた。
 迷路のように立ち並ぶ書架とキャビネットのせいでルベウスがどこにいるのか探すのに戸惑っているのだろう。
「戻ってきたようだ」
「呼んでやるのか?」
 デキウスは鎖骨の下にキスの痕を残して顔を上げると、上目にルベウスの顔を覗き込む。
「この状態で?」
 ルベウスは呆れたように言いながらも旧友の頭を押し返すこともせずに、視線だけ同僚の姿を追った。
「ルベウス……さま? 遅くなりました。古文書館で借りて参りました」
 本来、高位の貴族たちの前で朗々と響かせる歌声の持ち主が自信なさげに呟く言葉は、視界を阻む書物に吸い込まれるように通らない。この同僚はエーヴィアと呼ばれる三大テナーの有名な歌手であり、一方でその後ろ盾でもあるシャリートの子飼いとしてオディール城の城代の補佐を務めていた。
 補佐に推薦したのが、城代のルベウスなので、同僚であり教え子でもある。
 赤い髪が視界から消えたり現れたりしていたが、それでも無限の部屋というわけではなく、程なく赤毛の同僚はルベウスたちが囁き声を交わす書架の通路を見つけて立ちすくんだ。
「あ、あのっ、もうしわけ──」
 ルベウスが予告したとおり、通路の入り口で動けなくなり、言葉すら続かない。無造作にデキウスの肩を押し戻して胸にキスを浴びる状態から遠ざけたが、片腕で腰を抱かれたままの姿勢で同僚を手招く。
「何を謝る? 恋人の逢瀬を覗き見たわけでもないのだから、気にせずとも良い、エリティス。
 何を借りてきた?」
「火蜥蜴(サラマンダー)とファイアドレイクの繁殖地について……」
 エリティスは明らかに視線をどこにやればいいのか迷った様子で、最後には俯いた。ルベウスもデキウスもお互いを恋人ではないという。だが恋人以上に親密な笑顔と、許した近さで触れ合う様子を見せられて、恋人ではないという言葉を信じられるほどエリティスは初心ではなかった。
 彼らはそんな言葉でお互いを縛ってないだけに過ぎない。
「ではその五章の十四節から八章まで読解し、先に渡した資料と照らし合わせて導ける答えを考えて来い」
 ルベウスの声は冷ややかなまでに滑らかで、戸惑いの欠片もない。声だけを聞いていれば、執務机で気難しげに書類を片付けているように思えるだろう。
 デキウスがエリティスの定まらない視線を捉えようとでもいうようにじっと見つめたまま、ルベウスの片方の腿を腰の高さに抱き上げた。案の定、視界に入った何かの動きでエリティスは反射的に視線を上げ、目に入ってきた光景に赤面して俯いた。
「揶うのは止せ。反応に困っているだろう?」
「煽ったのはお前だ」
 ルベウスは苦笑しつつ片目で睨むと、腰と腿の抱擁から逃れて近づいてこない同僚の側へ移動した。少しばかり背の低い同僚の、リボンで結わえた癖のある髪を指先に絡ませて引く。
 エリティスはその動作に驚いて顔をあげ、さらには肌蹴たシャツの胸元に目を奪われて耳まで赤面した。
「近い……です」
 エリティスがようやく途切れ途切れに言えた言葉に、ルベウスの背後のデキウスが笑う。
「お前が一歩退けばいいんだぞ、エリティス」
 その言葉に弾かれたように、エリティスは文字通りルベウスから一歩下がった。その反応にルベウスが肩越しに振り返ってデキウスを睨む。
「揶うなと言っている」
「お前が無頓着すぎて、相手が可哀想に思えただけだ」
「そんな心遣いができるとはな」
「たまには」
 口角を上げて悪戯げな笑みを返すデキウスに肩を竦めると、ルベウスはエリティスに向き直った。とりあえず形ばかりシャツの前を合わせるがさほど気にしている様子も見せない。
「竜族関連の書物ならば、古文書館よりも城の書庫の方がある。着眼した点は悪くないが、まとめて提出するには説得材料に欠けるだろう」
「は、はい」
「書けそうか?」
「ご期待に沿えるよう、力を尽くします」
「では私がしてやれるのは以上だ」
 エリティスが「ありがとうございます」と頭を下げて顔を上げた時には、またデキウスが背後からルベウスの肩を抱いて、それ越しにエリティスを見下ろしていた。
 その視線とぶつかる戸惑いよりも、ルベウスが玩具に興味をなくした淡白さでエリティスから背を向けてデキウスの腰に手を回したことで、目に落胆の影が落ちたことを本人は知るまい。だがそれを一部始終見ていたデキウスが、エリティスに聞こえない程度の声でルベウスに囁く。
「片想いは色々と損だな」
「誰が誰に」
「俺ではない」
「つまらないことを言ってないで、出かけるぞ。ここでの用事は済んだ」
 ルベウスの唇が耳朶を軽くかすめ、改めて肌蹴たシャツを無造作に整えながら部屋を出て行く。その後を追いながら、半ば呆然と立ち尽くすエリティスを振り返ったデキウスは一、二歩後ろ向きに歩きながら、「今度遊んでやろう」と仄昏い笑みをたたえて、エリティスへの別れの言葉の代わりにした。

まなべさんより


こちらのイラストは、Seinのまなべさまよりいただきました。ありがとうございました!

この小説に登場するエリティスはこちらに紹介していますが、今後ちらちらと登場しますのでよろしくお願いします http://crystarosh.velvet.jp/granatum/wp/2015/12/27/npc/#i­3