黒と赤

聖11 眼鏡(ぬるめのお題022)


 デキウスがフィディウスの眼窩に嵌めこむ単眼鏡に違和感を覚えたのは、おかしなことにデキウスが聖界に加えられてからだった。地上では珍しいものでもなかったので特に気にしていなかったのだが、よく考えれば神の恩寵厚き天使で不自由なものがあるとは不思議な話だ。
 その疑問もすぐ忘れる程度の興味だったのだが、ある日デキウスが同衾した相手がぺらぺらと語ってくれたことによると、フィディウスは中級には珍しい生粋の聖界生まれで、下級の天使としての降臨をこなしあらゆる誘惑に耐え、中級に昇格後は魔族の討伐にも率先して参加し、現在の地位にいるそうだ。いわば現場叩き上げの出世らしい。
 そしてその魔族討伐の折、冥王からの攻撃を目に受け、その傷は未だ神でも癒しきれず、モノクルをつけているとのことだった。
 閨房での相性はよかったが、あまりに喋るのでその相手とはそれきりだったが、余りにも喋らないルベウスを前にふと思い出した。

 春と豊穣の姉妹女神の一件のあと、フィディウスからは随分と褒められた。何だ気持ちの悪い、何事かと思えば神であるシャリートからの任を受け、下界に下っていたルベウスを労わり連れ帰った上、すぐに斎戒宮(ピュアファイ)へ連れて行った判断の良さをルベウスがいたく感謝していたというのだ。
 心にもないことだろうが、彼なりの恩を返したつもりなのだろう。どうせなら直接何を返してほしいか聞いてもらいたいものだ。
 その後も地上で半年が過ぎてもルベウスがデキウスの元を訪れることも討伐に現れることもなく、下界へ降りているという話も聞かなかった。決して長い時間ではないが、退屈なときの半年でも一時間でも永劫に感じるものだ。
 噂好きの連中は、姉妹女神に身も心も陥落させられたのではないかとか、あるいはデキウスが何かと気を引こうとしていたから避けたのではないかと冗談半分に言ったが、さすがに普段の彼を考えればどちらもなさそうだという結論にみな達していた。
 だが真偽はわからぬので、デキウスはとうとう痺れを切らして彼の棲家を覗きにきたのだ。
 よく考えればなにかあれば彼の主人が放置しておくはずもなく、デキウスが消息を尋ねに来る必要もなかったのだが、本音を言えば単にあの顔を見たかった。
 夕刻に誰が出迎えるでもない扉を開き、中へと足を踏み入れる。聖堂などで焚かれる香の匂いが柔らかく漂い、いつものようにさまざまな色や形の美術品がデキウスを向かえる。減っているのか増えているのかわからないが、いつも雑然とした雰囲気で、それが妙に落ち着いた。
 寝台もないので寝起きしているとは思えないひとつきりの部屋を覗く。
 普段にも増して本が積み上げられ、古い巻物が広げられ、その中央でルベウスが書物に捧げられた生贄のようにアストラルの体で仰向けになって 目を閉じていた。眠っているのでなければ、何かに集中しているのだろう。
 どこかで姿を確認して安堵している部分を感じながら、さてどうしたものかと逡巡した。
 声をかけるのは憚られ、かといってすぐに帰るのも馬鹿馬鹿しく、暫く眺めていようと櫃の一つに腰掛け、物を言わぬルベウスの顔を見ていたときに先ほどの話を思い出したのだった。

「そこは壊れ物が入っている」
 と目を閉じたまま静かに声をかけられデキウスは隠れた悪戯をとがめられたように驚いた。
「気付いているなら挨拶ぐらいしろ」
「お前こそ、訪れたなら声ぐらいかけろ」
 ルベウスはそういうと大儀そうに体を起こし、彼を封じ込めるように周りに散らばっていた本を避けるために肉体をまとい、それらを片方に押しやった。
 デキウスが踏み散らかすのではないかと避難させたのだろうが、傍らに一人分の空間ができたのが嬉しく、デキウスは遠慮なくそこに腰を下ろした。
「何の用事だ?」
 ルベウスは久し振りに自分の肉体を見た者がよくやるように、自分の手の甲をしげしげと見つめ、握ったり開いたりを何度か繰り返した。
「用はない。暫く顔を見なかったので、姉妹に吸い取られたと噂が出ているぐらいだ」
 ルベウスはくだらん、というように鼻先で笑うと、胡坐をかいて腰を折り内腿に頬杖をついた。
「この前の任の見返りに、我が君から閑暇を賜ったのだ。フィディウスに聞けば知っていただろうに。そういえばあの時はお前の手を煩わせたな」
 礼を言う、と付け足して目を少し細めて笑顔らしきものを見せた。
「ああ、そういえばやけにベタ褒めされたぞ。お前のせいだろう」
 デキウスがニヤリと笑う。
「多少の点数が稼げただろう?」
「翌日には下がっただろうがな」
「相変わらずだ」
 ルベウスが可笑しそうに喉を鳴らして笑い、長い髪先がそれにあわせて揺れる。それに触れたくて、殆ど無意識に手を伸ばした。
 触れると抱きしめたくなる。抱きしめると口づけたくなるのがわかっているのに、立ち止まれない。
 そんな行為にはもう慣れたのか、それとも最初から何とも思ってないのか、寛いだままデキウスの顔を覗き込む。
「閑暇といっても、我が君に頼まれたものを調べていたのだがな」
 なるほど、と頷きかけてデキウスは口角を上げて顔を近づけた。
「俺が聞いてないことを話したのは初めての気がする」
「それは気のせいだろう。美術品の話は色々したぞ」
「そうではなくて……」
 ルベウスの頭の後ろに手を廻し、徐々に唇を近づけていく。相手は逃げる様子もなく、ただデキウスを冷めた温度の瞳で見つめている。
「聞きたいと思ったことを、だ」
 声を潜めて呟いたので、吐息が唇を掠めた。デキウスは相手の表情を見ながらわずかに口を開いて、触れるか触れないかのタッチで唇を重ねた。
ルベウスは逃げない。
 頭の後ろを抱いて支えたまま唇を重ね、体重をかけてエキゾチックな織り模様の絨毯に倒していく。
 不自然な体制で倒れこまないために、ルベウスは片手を床に着き、片手をデキウスに背に回した。ただそれだけの行為に、デキウスに笑いが浮かぶ。
 唇を舐め、軽く拒まれた歯列を開き、濡れて温かな舌を求めてさらに顔を傾け深く口づける。
 濡れた音が毀れ、水を含んだ音が静かな室内に妙に大きく聞こえると思いながら、デキウスは反対の手でルベウスの襟元を寛げて手を滑り込ませた。
 唇を味わったまま少し冷やりとした滑らかな肌に掌を這わせ、初めて触れた肌に急速に欲望が目覚めるのを感じる。
 ルベウスの顔を見ようと少し唇を離し、二人の唾液で濡れた口唇から引いた糸とわずかに覗く牙に喉を鳴らした。
 だがルベウスが自分を見る目は読めぬほど静かだ。怒っているとか軽蔑している視線を見るほうがかえって納得できる心地悪さに愛撫の手が止まる。
 ルベウスのほうがその反応に「どうした?」と呟いた。

 ふとルベウスの言葉がよみがえる。
「字を書いてくれといわれるのと大差ない」――。

 顔を見下ろし、はだけた衣服から覗く白い胸に視線をやる。程よく鍛えられた筋肉に覆われた胸が静かに上下しているだけなのに、目が離せない。
 乱れて床に散った髪すらなまめかしく思うが、冷水を浴びせかけられたようにその気が失せた。
 それなのに指先はルベウスの頬のラインを撫でることを辞めない。
「つまらぬことを聞くが」
 デキウスの言葉に、一瞬だけ頬を撫でられるのが気持ちよい猫のように目を眇めたあと、いつもどおりの表情で「なんだ?」というような視線を返してきた。
「今どう思ってる?」
「お前はいつもそんな確認をするのか」
 ルベウスが悪戯げに笑って、寝返りをうってうつぶせになると、クッションに頭をのせて目の端でデキウスを見上げた。
「その気にさせてみろ、とお前は言ったな?」
「ああ」
「――いまは?」
 その問いに、ルベウスが口角を上げてにぃっと笑う。
「どう思う?」
「怖くて聞けん」
 ルベウスが手を伸ばしてぽんっと膝をたたいた。まるで気にするな、たいしたことじゃないとでも言うように。
 デキウスは予想していたとはいえ、思わず腹の底からの溜息をつくと自分もそばに横になった。何もかも馬鹿馬鹿しい。
 顔が見たかった自分も、髪に触れるだけと思って止まれない自分も、嫌がるどころか早く済ませろみたいな目をしたルベウスも。
「だが――こうやってお前が近いのには慣れたと思う」
「朗報過ぎて、泣ける」
「そうか」
 ルベウスは相変わらず面白そうに言うと、「面白い男だな」と口癖になったような言葉を漏らした。

 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です