黒と赤

【魔02】お題 

お題 ①つないだ手を離さないで/②毎日キスをする夢を見る/③その感情の名前  


聖界で大規模な叛乱が起こり、のちに聖戦と呼ばれ壮麗な城を頂く魔界が誕生するが、その戦いの直後は決して華々しい幕開けではなかった。
 冥界、人界、聖界と三つに分かれていた世界は、反乱を起こした神々により、冥界に魔界という新たに広大な空間を作ったが、あくまでも生き延びるためであり、およそ快適とは言いがたい場所だった。冥界からの邪悪な生き物を地上に出さぬ役割も担う戦いの空間だ。
 灼熱と極寒、濃霧と毒を含んだ土壌、凶暴で聖族の命さえ易々と奪える生き物。それらを魔力で改良し淘汰し、貴族たちが悠然と住まう場所になるには人間の言うところの百年の時間が必要だった。たとえそれが人外の感覚にとって瞬く一瞬であるにせよ、百年には変わりない。

 一番の理由は、堕天後、力ある魔貴族をふくめ全てが暫くのあいだ傷を癒す必要があったからだ。肉体的な変化、喪失、変異、あるいは精神的に蝕まれた者が多くおり、それに耐え切れぬものは命を消していった。 休戦を結んだといえ、当然のごとく聖界からは以前のような仲間に対する治療の助けの手は無い。
 地上の夏といえば生けるものが生命を謳歌する季節だが、魔界ではただひたすらに高温で微毒を含む霧が発生し、弱ったものの命を奪った。元は高位で力のあった聖族であれ、倒れ二度と立ち上がれぬものがいた。
 デキウスの負った傷は歩く体力はもちろん腕を上げることすらできない酷さだったが、幸いにも殆ど回復のために深い眠りについていたためその激痛を舐める時間は短かった。
 デキウスの由来でもある闇に身を浸す眠りは深く通常の睡眠ではないが、それはまた彼が回復の時間を尋常ではなく必要としているゆえでもあった。
 ルベウスの主人が用意してくれた断崖の上の仮住まいは殺風景で、部屋は二つ。そしてバルコニーがあるだけで、一つはデキウスの寝室であり、一つはルベウスが魔界に来てから手に入れた僅かな私物が放置されている部屋だった。元々眠る習慣のなかったルベウスは聖界時代から寝台を持たず、読書も仮眠も床に置いたクッションに凭れてすませていたが、今はその場所もデキウスの寝台の側になっている。
 当初はタペストリーの一つもなく壁も廊下もむき出しの冷たい石材のままだったが、デキウスが眠り続ける寝台だけはルベウスが手に入れられる限りの贅が尽くされ、日を追うごとにその快適さも部屋へと広がっていった。

 逆に言えばそれぐらいしか眠り続けるデキウスのためにしてやれることなどなかったのだ。主人がデキウスの傷を見て、生き延びるといった言葉に疑問を抱いているわけではないが、それでも尋常ではなく続く眠りに不安を覚えないといえば嘘になる。
 数日おきにほんの数分の覚醒を待ち焦がれる気持ちは、何に対して安堵したいのかと冷静に考えられるほど、ルベウスの心理状態もまだ落ち着いていなかった。
 快適とはとても言えない魔界で、自分が負った目の傷のこともあり、さらにはその手で朽ちかけた翼を毟り取った旧友の世話を見るというのは、過去を振り返ってもありきたりではない。
 何より誰かの生死にかかわる面倒を、自ら引き受けたこともなかった。
 誰に命じられたわけでもなく、当然自分が負うべきものとして、むしろそれを誰かに任せることなど考え及ばぬことなど一度もなかったのだ。
 聖界で繋いだ絆は、意識するよりも深くルベウスを絡み取って包み込んでいた。
 そして彼自身が気づくことがないほどに密やかに根を下ろした変化でもあった。

そして今、穢れを体内に生み出し、過ぎれば堕ちる負の感情というものから解放されたはずなのに、体内に降り積もる不快が続く。

 それを不快と思うように身体が慣れてしまったのか、自分自身がもともと拒否反応を起こすのかわからないが、ルベウスは主人の召喚に応じるべく出かけようとして、体内からせりあがるものを感じて反射的に身を乗り出して最悪の事態だけは避けた。
 最悪、とは足元にあったわずかな書物に逆流した血が降りかかることだ。聖界時代に穢れが過ぎるとよく血を吐いたが、あれは自浄の一環で名状しがたい苦痛と最低な気分の悪さは伴ったものの、理由はしれていた。
 だが堕天後から暫く続いているこれは何なのか。単なる堕天の影響で肉体が順応していない反応のひとつなのだろうかと訝る。
 多くの聖族が落ち、肉体的変化の凄まじいものは肉体的に耐え切れずに消えたものも少なくない。主人は目の色を、上級天使であったバールベリスは一対の翼を失ったという。
 そのほかにも捩れた角がひたいを突き破ったとか、骨の翼になったとか、瘴気に侵されて人型すら取れなくなったとか、一番身近な例ではデキウスは翼を瘴気で溶かしてしまったなど、症例は驚くほどある。
 そんなものからすれば、些細な体調の変化なのであろう自分のような例は殆ど噂にも上らないのだろう。
 ルベウスは腹からの血の逆流が収まると、軽く喘ぎなら不機嫌に汚れたシャツを脱ぎ捨て、壁にもたれて床に座りこんだ。
 最近、この反応が出る前の自分をつらつらと思い返すと、聖界時代に己を悩ませた感情に似たものであることに薄々気付いていた。
 執着、独占、さらには底なしに欲する欲望。
 もう堕ちるなどと禁じられているわけではない。野望でも殺戮でも相手を妬き殺すほどの嫉妬でもどんな感情を抱いてもかまわないのだ。なのにこれが積もると、聖界時代と同じように血を吐く。
 それによって自浄されているとは思えないが、とりあえず吐けば不快感はいくらばかりか鎮まった。
 血の味の残る口をすすぎ、新しい服に着替えたところで自分を呼ぶ声がした。


 堕ちて翼を失って以来、デキウスは殆ど闇に引きずり込まれた眠りに浸る。一日のうち何度か目を醒ますこともあれば、数日間、目を開かないこともあったが、だんだんと一定のパターンがあることに気付いて、彼の眠りの時間を計って出かけるようにしていた。
 それでもたまに例外的に目を醒ます。今がちょうどそれだ。そんな彼を置いて城を空けなければならない状況に毎度後ろ髪を引かれた。
 彼が起きている時間が惜しいのだ。
 一つの交わす言葉、自分を見る眼差しは、彼が生きていて安堵する自分を確かめるという儀式だった。
 隣室には血を吐いた跡が残ったままだったが、髪も服も乱れ一つ無い様子でデキウスの枕元に身を屈め、ひたいに触れる。
「どうした?」
「ああ、夢か……」
 デキウスは、目覚めたせいで容赦なく襲い掛かってくる苦痛に耐えながら唇を笑みの形にゆがめた。
「お前とキスしていた」
「それは良いな」
「その間に、血を吐いた。聖界で穢れを溜めすぎて」
 ほんの今しがたの自分と重なって、ルベウスはデキウスのひたいに触れていた指の動きを止めた。
「穢れなどもう溜まらぬ」
「そうだな。だが血のにおいがする。不思議だ──」
 デキウスはそういうと、また闇の眠りに引きずり込まれていくように目を伏せて呼吸がゆっくりと深くなっていった。
 ルベウスはそれを見守りながら目を細めると、身を屈めて薄く開いた唇におのれの口唇を触れさせた。
 自分のすべての充足と渇望を同時に握る、旧友の眠りが深く穏やかであるようにと。

魔02

 


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