黒と赤

【魔01】地の底で嗤え

 


 デキウスが最初に感じたのは視界の暗さだった。
 聖戦はルーフェロが魔界に下ることを選ぶことで、大きく戦況が変化したのだ。
 清浄な光に満ち溢れた天界に比べての暗さではなく、それが激痛ゆえだと気づくのにかかった時間はまばたきの一回分も必要ではなく、同時に意図せずに声を振り絞って絶叫していた。
 肉を持たない聖族が戦闘のために物質化したときの、覚えのある肉や皮を裂く痛みではない。
 『神』というものを一つの型にはめ、ラ・ハエルと名乗りだした独裁者に異を唱えた結果の代償がこういう苦痛だと知っていれば、同じ志をもっていた連中の三分の一は天界にとどまることを選んだだろう。
 デキウスは喉の奥で唸ることで何とか絶叫を押しとどめることに成功し、霞む視界で改めて周りを見回した。
 かつて聖族の同士とは思えぬ醜く無残な姿に変わり果てた肉塊や、命すらとうに奪われた屍が累々と横たわっている。異様に関節が増えてでたらめに捩じれた四肢、おぞましい鱗に覆われた肌、額を突き破った角など、その変異に耐えられなかった死も多いように思えた。
 そして何より受肉したままの姿の死は、聖族から見れば吐き気がするほど醜く、おぞましい。その光景だけで馴染みのない不快感が体の奥から喉元へとせりあがる。 
 死んでないものは自分と同様に、苦痛に呻き、叫び、あるいは既にその限界を超えたのか無表情に動かない者もいた。
 自分がまだ幸運な部類なのか、命があれど苦痛に正気を蝕まれてやがて朽ちるのが恵まれているのかわからないまま、呆然と視線を動かすとそんな絶望の立ち込める屍の荒野から立ち上がる者がいることにも気づいた。
 六葉の翼を広げ力強く舞い上がる姿は、目の前の景色と比べれば非現実的なほどに美しく見える。
 毒々しい色に染まった雷雲が低くたちこめた空を背景に、薄暗い世界を切り裂く稲妻の光を浴びながらこちらへと向かってくる姿は、死者を狩りあつめる命をおびた者の用でもあり、同時に救いの希望のようにも見えた。
「……な…──?」
 漆黒の翼が落とす影に、デキウスは溜息と共に血を吐いた。
 今の自分に空を舞う力は残ってるだろうか? そう考えたと同時に再び体のありとあらゆる場所からの激痛に絶叫した。 身体の奥底から、そして皮膚の表面全て、血肉の全てが彼に抗うように苦痛を滴り落とす。

 翼。

 そう、己の翼を確かめようと腕をそろそろと後ろにまわしかけ、今度は思考さえ焼くような鋭いな痛みに容赦なく顔から突っ伏した。
 痛みのすべてが、いやそう思えるほどの痛みの源が己の翼にあった。
 毒を含んだ魔界の土が唇を焼いたが、そんなものは些細な痛みだった。
 無理だということもわからず、翼に手を伸ばしてその苦痛の源を引き裂こうと試み、のたうつ。
「翼をやられたな……。だがそれで済んだのなら運が良いほうだろう」
 頭上から降ってくる深みと艶のあるバリトンの声には聞き覚えがある。
 友人のルベウスが仕えていた主人であり、叛旗を翻した軍勢の七人の将軍の一人だ。そしてまごうことなく『混沌』が生んだ原始の神の一人であった。
 それほどの力を持った存在ならば、堕天の事実も魔界の毒もたいしたダメージを与えられないというのだろうか。相手は屍の荒野で落ち着き払い、天界にあった時と同様に力に溢れ、優雅でさえあった。
 デキウスは自分の翼はどうなっているのかと尋ねたかったが、出てきたのは擦れた絶叫で、それも溢れた血で咽る咳となった。
「残念だが、お前の翼は救えぬ。だがお前自身は生きるだろう」
 淡々と事実を告げる声に憎しみと恨めしさを含んだ視線で見上げると、黄金の双眸とぶつかった。
 その現実に思わず皮肉めいた笑みを唇が形作る。
 無傷に見えるかつての神、シャリートの瞳は紫水晶の色から竜を髣髴とさせる金色に変わっていた。それが堕天の代償ならば、なんと些細なものかと羨みそうなものだが、デキウスはむしろ将軍であろうとも代償を払わせずにはいない堕天することの公平さを嗤った。
 それを言うならば、みごとな漆黒の翼を目にしたときにも同じことを思えただろうが、あの時は純粋に美しく力強いと感じただけだったのだ。
「我が眸を笑うか、デキウスよ」
 物柔らかに笑いを含んだ声が耳をくすぐる。
 だが相手に腹を立てた様子は少しもなく、むしろ面白がっているようでさえあった。
「我が君の──、ルーフェロ殿のもとに集え。我らはここを支配する眷属になる」
 シャリートは優しい口調で命ずると、すでに他の生存者を探すように頭を廻らせてデキウスのことなど失念したように飛び去った。
 悪態の一つでもついてやりたかったが、出たのは血の混じった喘鳴だけだった。
 それと入れ違いに別の影が側に舞い降りる。
 どうやら生きて飛びまわれるほどの連中も結構いるらしい。
 ならばこの自分の無様な状態は何とも情けなくて笑えるな、と新たな影を薄目で仰いだ。
 右目を傷つけたのか端切れの黒布で片目を覆うように縛り、こちらをまるで石でも見るような無表情さで見下ろしている友人がいる。先ほどのシャリートが呼び寄せたのだろう。
 紅玉を思わせる真紅の翼をしていたはずの友人だが、すっかり闇色だ。
「お前も……、もったいないな」
 友人の前で張る見栄はかなりの精神力を取り戻してくれたようで、デキウスはようやく言葉らしいものを紡ぐことができた。
「なにが?」
 ルベウスが淡々と聞き返して屈みこみ、デキウスの背にあるはずの翼を一瞥し顔をしかめるのが見えた。
「毒と瘴気か。それ以外に聖族が受ける特有の魔界のダメージ。殆ど溶けている上に、骨も露出している。しかも毒の浸食が進んでいる」
「取ってしまってくれないか? このままじゃ頭がイカれて使い物にならなくなりそうだ」
 デキウスはつとめて軽い口調を装って苦痛をごまかし、ルベウスに提案した。
「イカれてるのは今に始まったことじゃないが、これ以上というのも困る」
 ルベウスの眉が上がって、デキウスを正気かというように見下ろす。
「手元に剣などない」
「両手があるじゃないか。それとも汚れ仕事はお嫌いか?」
 デキウスが苦痛の汗を浮かべたまま挑発の笑いを浮かべると、ルベウスはちらと自分の両手を見つめてからデキウスの背に足を慈悲の欠片もない力強さで乗せた。
 それだけで押し殺していた悲鳴が淫らに溢れそうになる。
「ああ、嫌いだとも」
 ルベウスの声に一片の同情も優しさもない。
 デキウスが振り仰ぐと、冷たい瞳の奥に狂気に似た炎があった。
 いや、あれは悦びの炎だ。残忍で冷酷で甘い情欲にも似た熱。
 それでこそ戦いで背を預けてきた友人だ。憐憫や同情で曇る決断など、二人の間には必要なかった。
 ルベウスの足に力が入り、手が朽ちた翼を一つにまとめて乱暴に掴もうとする気配がする。
 息を呑むのと絶叫するのと同時には出来ない、と思いながらもデキウスは自身の声の恐ろしさを他人事のように聞いていた。
 
 生木をゆっくりと裂くような軋む音が耳の奥で不快にこだまする。
 そして離れがたく血と肉で抗議する翼の名残が、ルベウスの白皙の頬に散った。
 絶叫のあとには再びかろうじて生をつないでいる者達の苦痛と救いを求める声だけという、ある意味静かな荒野にルベウスは両手で毟り取った友人の翼の名残を手に立っていた。
 その表情には相変わらず変化はない。 
 デキウスの背は肌が見えぬほど血塗れていたが、生命を脅かす存在がなくなった今、早くも組織の再生を始めている。
 ルベウスは翼の名残をつまらぬと折ったものが木の枝でもあるようなぞんざいさで投げ捨て、デキウスに身をかがめると己が血に染まるのも構わずにそっと意識のない頭を抱いて唇をゆっくり押し当てた。

 


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