黒と赤

【魔11】 『そんな声で呼ばないで』

己の腕を切り裂いてデキウスの背中の翼の痕跡に血を滴らせ、傷口が血の一滴も残さずに綺麗に呑み込んでいくさまを見守る。本当ならば一日で言葉を交わせる程度の時間のはずだが、数日前に彼に煽られるまま自制を失って負担を強いてしまい、このありさまだ。デキウスは昨日も目を覚まさず眠り続けた。
 自分の愚かさをどうこう思うよりも、限られている時間に言葉を交わせないのが口惜しい。いったいもう同じことを何度やって、何度後悔して、そのたびに次は応じないと思うのだが、毎回そんな決意はもろく砕け散る。
 目の前の、手の届く距離で「欲しいのだろう?」と言われて拒絶の言葉が出てこない自分にも驚く。目覚めると意識せざるを得ない傷の痛みに顔を顰めながらも口許で笑い、動ける範囲で自分に触れてこようとする指先を避けることもできない。
 それほどにこの男の声と体温に飢えている、というのはもう十分すぎるほど自覚していた。

 いつものように服を脱がせてあますところなく清拭し、そろそろ目に馴染んだと思う髪の色を指先で撫でた。それでもまだ聖界にいたころに毎日見ていた銀糸の髪の印象の時間の方が長い。記憶を上塗りして現実に修正するにはもう少しかかりそうだ。
 寝顔を飽きるまで眺めて、最後には短く溜息をついて寝台のそばを離れる儀式は、人間の時間で言うなら20年近く続いているが、魔族や聖族の時間感覚は異なるので、人間の人生にとって重大な長さを占める時間も些少だった。
 だからといってあれこれと思い考える時間が短いわけではない。
 そろそろ主人のために出かける支度をしなければならず、いつものように寝顔を見つめた最後の儀式をする。
 デキウスの漆黒になった髪をかきあげて己のエネルギーを充填したピアスをさらし、不在中も回復を助けられるほどの気が残っているかを確認する。そしてこめかみに口唇をやわらかくつける。
 いつもはそれで終わるが、今日は無意識に名を囁いた。
 デキウス、と。
 密やかに、そして睦言のように甘く。
 お互いを激しく求めたその先にいつも残る言葉が、相手の名前だ。
 その声に僅かに睫毛が震えるのを見て、ルベウスは微笑を滲ませながら髪をもう一度梳き上げ、立ち上がった。
 闇の深いところで微睡む彼に、いかに自分が求めているか届けばそれで良い。
 そうすればデキウスも少しは早く目覚めるだろう、と思いながら薄暗い寝室を出た。

そんな声で呼ばないで


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