黒と赤

【聖36】 忘れ物(ぬるめのお題060)

 聖界では肉体を纏った相手に触れるのは最大の非礼だが、さらにその上に禁忌がある。それは相手の翼に触れることだった。
 肉体化したときには翼も物質化するが、その実は限りなく物質に近いアストラルであり、ゆえに身の何倍もの大きさの翼を自由に体内から出し入れできる。一方で背の付け根にあたる部分は肉体とアストラルが直接触れる場所でもあり、恐ろしく感じやすい、むしろ急所に近いところだった。
 もし翼を喪失するような怪我を負うならば、その痛みは精神を蝕むほどの激痛となって絶命に等しいであろうし、それで消えてしまった聖族も珍しくは無い。喪失せずとも、負傷はアストラルを傷つけることでもあり、彼らはそれを酷く恐れる。
 だが、その部分に触れることを許したほど密接な相手との慎重な接触ならば、中毒性のある激しい快楽があるとも言われている。しかしやはり命に関わる場所として、閨で肉欲に耽る旧神と言えども触れられるのを嫌う聖族が圧倒的だった。
 それでも禁忌と言われれば試したくなる連中もいたわけで、快感よりも命を守ろうとする本能的な警戒と怒りしか感じないという感想が多い中で、それを乗り越えて快感を知ったものが、密やかに語る蜜の味はいっそう禁断の魅力を増した。しかし大半は翼の羽の先を相手の許可を得てそっと触れるのがせいぜいにして、最大の情熱でもあったのが現実だ。
 ゆえに命の危険を孕むと同時に、究極の快楽を生み出す場所として、翼自体に触れることが禁忌になっていた。
 デキウスにとって翼は聖族として天界に招かれたときに身に帯びたもので、自分の体の中ではもっとも新参者だったから、暫くはありとあらゆることを試していた。今まで滑らかだった背に翼が生えること自体馴染まなかったが、持ち前の運動能力の高さから飛ぶことはもちろん、技巧的に身を翻すこともすぐに慣れた。
 一対の翼は力強く、左右に広げると大抵の聖族のものを凌駕するので、完成された体躯と相まってデキウスが戦闘で舞う姿は勇壮で美しいと評されることすらあったが、大抵はその姿は血塗れていたので恐れられていた。
 噂の翼と背の境目に触れることは、怒りと快楽が同時に起こり、自分で触れてもなるほどと思う感想だったが、怒りを制御できればその部分の愛撫だけで交わることに等しいことも容易に想像がついた。
 ただ自分では納得のいくような触り方ができない場所と言うのがあれこれ試すには不都合で、まれに高位の者の寝所に呼ばれたときは、文字通り足腰が立たなくなるほどにその部分を攻められたこともある。
 もともと性に対して貪欲で奔放に生きてきたのだから、禁忌と言われると余計に気になるのは仕方あるまい。ましてや今までなかった部位だ。
 ただいかに娼館の好事家たちといえども、それを進んで試してよいという者はいなかったし、そんな相手に触れさせてみたいわけでもなかったので、自分も自然と触れない場所になっていた。
 そういえば誰の翼であってもアストラルの光が背から伸びたと思うと、次の瞬間には具現化しているので、じっくりとそれが生じる光景も見たことが無いので、それも大きな興味であった。
 しかし。ここにきてどうしてもあれこれと試してみたい相手が現れてしまったのだ。
 一度、その相手に仕事として房事を務めるときに触れたりしないのかと尋ねてみたところ、眉をひそめて狂人を見るような視線が返ってきたので、あれが答えの全てだろう。
「要望があれば、慎重に触れることもあるが、むしろ翼で抱いてくれのほうが多い」と前置きした上で「聖界でそんなことを聞いて回らないよう勧めるぞ」と、どこか哀れむように言われたほうが地味に堪えた。
 また、ある時はルベウスと一緒に行動していた討伐隊のメンバーがヒソヒソと慄いている会話を聞いたこともある。
 空中戦で翼の先端の羽根を僅か掠られて、ルベウスは烈火の氷というごとくな態度で肩から股まで斬りおろして剣を抜かず、さらには苦痛が増すように切っ先を捻り、返り血を浴びたまま相手が絶命するまでじっと氷蒼の眸で見ていたという。
 敵の殲滅スピードは常から恐ろしいほど早いが、相手の苦痛や恐怖を嬲るようなことはしない。ましてや聖族がそんなことをすれば大量の穢れを溜め込むことになるだろう。それをやったのだから、相手は殆ど制御不可能な反射的な怒りに触れたのだ。
 だが、と思う。
 僅かな翼の先でそこまでの怒りを感じるならば、かつて自分の部屋に闇の穢れを扱いかねて休みにきた時、彼は途中で翼の姿を解いたとは言え、腕の中に納まっていた。確かに非礼を怒るなという前置きをして抱きしめはしたけれども。
 体を重ねるようになって、背には何度も触れ、時には爪を立てることもあったが、翼に関してはまだ礼儀正しい距離を置いたままだ。肉体に触れる非礼を初対面でも起こらなかった相手だが、さすがにこれはどうだろう、と思案してみる。礼儀云々ではなく、下手に怒られたくないのだ。
 それでも全てに触れたいという欲は増すばかりだ。
 とりあえず聖界において禁忌であれ、ルベウスがどう思っているのかと尋ねてみることにした。
 地上でルベウスの選んだ美術品の闇を取り込んで浄化し、その後はいつものようにお互いを貪り、ようやく聖界での渇きを落ち着かせたひと時を愉しんでいたタイミングで、デキウスは尋ねてみた。
 ベッドに横になったまま肘をついて頭を支えてこちらを見ていたルベウスが、呆れたように片眉を上げる。
「お前と言う奴は、どうしてそう禁じられたものに興味を持つのだ」
「禁じられるから興味を持つのだ。わかってないな」
 デキウスがルベウスの髪をもてあそびながら答える。
「私は触れられるのはご免蒙るがな。最大譲歩して、翼の羽先部分なら」
「ふむ。では翼を出すところを見たいというのは?」
「今まで何度も見てるではないか。変なことを言う」
 ルベウスは面白げに笑うと、腕を回してデキウスの翼が生じるあたりを指先で撫でた。
「光のようなものから一瞬で翼の形状になるのが不思議で」
 ここで自分が翼を出せばどうするだろうという悪戯心が掠めたが、今は大人しくルベウスの愛撫を愉しんだ。
「禁忌の部位である一方、聖族の象徴だ。あまりに肉に定着して戻せなくなるような状態は無様とされる。つまりは穢れだな」
「いつかの誰かみたいにか?」
 ルベウスが口角を上げて軽く睨む。
「そうだ。だから瞬きするほどの一瞬で翼を纏うのが美しいとされるし、実際それができるのは聖族の力が安定して充実している証拠でもある」
「翼が生じる場面をゆっくり見たいと言うのは、無粋か?」
「かなりな。翼が外に出ようとするのをわざと抑えるわけだ。無駄に消耗する」
 ルベウスは笑うとデキウスの頬を撫で、肘をついて身を起こすと長い髪を背から胸へまわし、背を晒した。
 触れるなよ、と前置きすると、デキウスの目前で右の肩甲骨のあたりの皮膚だけが破れ、肉が割れるが血は出ない。
 爪のように鋭く白いものが2本、這い出すように延びてくる。それが骨だと気付いた時には、天井に向けて翼の骨格が形成され、霧を纏うようにそれにそって花が綻ぶがごとく羽毛が生じていくのに目が釘付けになった。
 深紅の、見慣れた美しい二枚の翼だ。
 ルベウスが浅く息を吐く。
「片側だけでも疲れる……」
 デキウスは指を伸ばすと、一番翼の付け根から遠い一枚の羽根に触れたが、それでもルベウスの不機嫌な叱責と翼の消滅と言う対応を持って報いられた。
「触るなと言っただろう」
 どこまでも冷ややかな声に、デキウスは苦笑しながらも滑らかに戻った背に唇をつけて背後から抱きしめる。
「じゃあ、俺のに触れてくれるか?」
 ルベウスが肩越しに怪訝な顔を見せると、呆れたと言うように溜息を吐いたが「そのうちな……」と宥めるように腕を撫でた。
「お前以外に頼めぬではないか」
「断ったら?」
「他所へいく」
「舌の根も乾かぬというやつを、今実感した」
 ルベウスは身を返すと、デキウスの両肩を押してベッドに沈め、顔を傾けるとヴァンパイアの真似事をするように首筋に口をつけ、甘く吸った。
 はらり、と朱が落ちる。
 ルベウス自身、一瞬、血が流れたかと思ったが、それは先ほど自分の翼から落ちたらしい緋い羽根だった。体内に戻れなかったそれは、物質化したままだ。
 デキウスがそれを拾い上げ、羽柄から羽軸に沿ってルベウスに見せるように舐め上げる。
 ルベウスは目を眇めて面白げに見ていたが、それが薄い墨色のクリスタルに包まれるのには驚いたようで少し身を乗り出す。まるでガラスに挟まれた標本のようだ。
「闇に閉じ込めた。記念にもらっておく」
「何の記念だ。人の羽をおかしなことに使うな」
 ルベウスが可笑しげに言いながら、それを奪おうと手を伸ばす。
「羽化を見せてくれた記念?」
「羽化は虫に使う言葉だろう。失敬な」
 二人はまたくつくつと笑いながら寝台に沈むと、お互いに腕を廻してその肉体を確かめるように抱きしめた。
 たとえ禁忌の翼に触れるずとも、体はこれからの快感の予感で十分に熱い。お互いを煽り、もっと寄こせともつれ合うひと時は聖界では味わえぬドロリとした時間だ。
 だがそれ以上があるならば、二人で見てみたいと思う気持ちは強くなるばかりで、どうやってそこへルベウスを招こうかと思いながら、デキウスは傍らのテーブルに緋い羽根を閉じ込めたクリスタルを置いた。

 


 

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