黒と赤

海狼と薔薇2 邂逅2


 ──レハイム、お前は当家の血を継ぐ者として、金ではなく名誉を、地位ではなく誇りを手にせねばならない。家名を汚さず、一族を支え、誰もが当家の誉れと呼ぶような人物になることが、家督を相続できぬお前に課された義務だ。

 はい、父上。

 

 無知な少年の俺が素直に答える。
 厳格な父が頷く。

 子供たちに割譲できる広い土地もなく、長男に譲るのがやっとという末流の貴族の次男として生まれ、呪文のように繰り返されてきた要求。
 難題とも言えそうなそれを、最小限の努力で叶えてくれる先が海軍だった。 体裁のために放り込まれた士官学校は貴族の子弟が多く、その爵位と出自に応じた階級社会に辟易したものの、彼らは相応におだてて持ち上げてやれば機嫌が良かった。全力で挑んで鼻を明かすなど、愚の骨頂だ。気分で好きに罵らせ、時にはへつらってやり、彼らのほうが優れていると常に感じさせてやれば、彼らはこちらに油断し、さらには目こぼししてくれるなど何とも扱いやすい連中だった。
 そんな彼らと友情など最初から期待するはずもなく、俺の友人は貴族でも同じように家督を継げぬ末子や庶子、そして庶民から何とか上流に這い上がろうと貪欲な両親の道具となった優秀な息子たちだった。
 簡単に言えば、俺は上からも下からもそこそこ重宝され、そこそこ頼れる友情と人材をつかみ、それは卒業後に海軍に配属されても継続した。
 要するに海で泳ぐだけではなく、社会でも巧みに泳げることを証明してみせたわけだ。
 
 そう、そこで溺れるまでは。

 激痛で意識を失っていた俺に、子供のころから聞きなれた甘く優しい歌声が届く。
 眠っては駄目、と。
 眠っているわけではない。だが、腕の一本、自分の意思で動かせない。
 意識を手繰り寄せるのよ、と悲しげな声が混じる。

 死なないで、と。

 ああ、俺は死にかけているのかと、上下もわからない闇でもがいた。
 窒息するような濃厚な闇が、俺を押し包んでいる。口を開けばそこへ容赦なく入り込み、鼻も耳も目もそれが覆い尽くす。抗いたくて手足を必死にばたつかせているつもりだが、何処にも何も触れず、枷がはまったように指先一本すら動かないような気がする。

 以前に北の冷たい海で死にかけた記憶が蘇って、同時にその恐怖と苦しさと怒りが俺の正気を塗りつぶそうとする。
 俺はその中で唯一聞こえてくる、人を狂わせ死に追いやる歌声に縋った。

 それは少年のころから子守唄であり、姉であり、母であり、恋人でもあった水妖の歌声。
 暗い海の上に磨き上げた金貨のような満月が輝くとき、人を水底へと誘う妖しい歌。
 なぜか俺にとっては、生みの母や嫁いで顔も朧な姉よりも親しく優しい魔であり、その素晴らしい歌声は俺を慰め力づけてくれた。船を嬉々として沈め、人の命を水底に沈めるはずの歌声は、何故か俺には心地よい極上の音楽であり、それを愉しむ俺を水妖たちは可愛がってくれた。体質なのか能力なのかわからないが、とにかくそれが海軍に入ってからも何度も俺を助けてくれたのは事実だ。

 その声が、いま意識の闇でもがく俺に届く唯一のよすがだ。

 混乱から滅茶苦茶に足掻こうとする自分を意志の力で抑え付け、押しつぶそうとするような闇に身を委ねて意識を研ぎ澄ませる。

 血。
 大量の血のイメージが見える。
 ほとんど漆黒に見えるようあ赤黒い、血の大海。

 水妖たちが海への贄として望んでいるのか? と思ったところで、これが闇だと思っていた正体だと気づいた。
 俺を飲み込もうとしてるのは血なのだ。だが不思議なことに匂いも味もない。
 何なのだこれはと思った途端、足が床か地面に触れた。とりあえず上下がわかったことで少し落ち着き、ほかに何か見えないかと目を凝らすと、ぼんやりと白いものが遠くに見える。

 そこで俺は最大の危機を思い出した。
 生きるための依り代が必要だ。
 人ではない。血でもない。
 俺の命をこの世に結び付けておけるのは、ただ船のみ。
 自慢の帆船は、横っ腹に地獄のような穴を開けられてしまったのだ!

 かすかに見える白いものを頼りに、まるで距離感のない空間を重い足取りで進む。
 それがはっきりと何か見えたときに、俺は柄にもなく息を呑んだ。
 一点の染みもない、香気あふれる白い薔薇だ。
 薔薇など、もう何十年も見ていない。香りすら記憶に朧なのに、目の前の薔薇は清涼でわずかに甘い香りを馥郁とたたえている。
 それがまるで山に積もった雪のように何かを覆っているのだが、それをどうすれば確かめられるのだろうと花のひとつに手を伸ばしたところで、初めてこの空間の空気が動いた。

「お前のよく回る頭に免じて、怪我人を運び込むことを許す」
 凛とした、この白薔薇のように涼やかで冷たい声。

 俺は招き入れられた。
 薔薇が迷路を開くように左右に別れ、その先に重厚な棺が見える。
 あれは俺のための棺なのだろうか?

 あらゆる幻や記憶が色彩の渦のように押し寄せ、意識が深海から引き上げられる魚のような速さで浮上していく。
 とたんに脇腹が焼け付くように痛み、うめき声とは言えぬ絶叫を上げた。
 くそったれ。
 気絶していたほうが何百倍もマシだ。
 だが、俺は船を手に入れた。
 血のような漆黒の帆船。
 何百何千と血を吸った木から木材が作られ、それで建造された船だ。それゆえの血のイメージ。
 俺の命を繋ぐもの。 
 水妖たちが安堵したように、もう大丈夫、と囁く。今度は眠りなさい、と。

 ではあの白い薔薇が守っていたのは船の主人か──と、沈み行く意識の中でぼんやりと考えた。
 故人ならば遠慮はいらぬ。
 俺が船に新たに命を吹き込もう。

 だが頭の片隅で、俺を混濁から引き上げた声の持ち主こそがそれだと理解していた。
 棺を開けて覗き込みたい、という好奇心で手を伸ばしたつもりだったが、現実には血で汚れた指先がわずかに動いただけだった。

 


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