黒と赤

海狼と薔薇1 邂逅1

人が眠りを死と近しいものだと感じることがあるならば、ヴェレッドの昼の眠りは殆どそれと同然だと言ってもよかろう。
 棺に納められた死者が二度と身動きしないのにも似て、穏やかに伏せられた睫は震えることすらせず、眠りについた姿勢から寝返りを打つこともない。ただ注意深く観察すれば、上質な絹のシャツに包まれた胸がごくゆっくりと上下している。それが人ではない命を持っている証でもあった。
 だがその死と極めて近い眠りからの覚醒に、人間のような夢の狭間に揺蕩う時間も眠気に抵抗する足掻きもない。それはあたかもコインの表裏のようにはっきりと異なる領域のものだった。
 人形の目が開くように機械的ともいえそうな動きではっきりと目蓋を開き、眠りのもたらしていた無防備な寛ぎの欠片すらなく、目の前の相手を殺せる最大限の力を瞬時に揮うことができた。
 まるで何かから急に命を吹き込まれた人形のように。

 ヴェレッドはまさに命を吹き返したように澄んだ薄氷の青い目を開くと、熟練の彫刻家が大理石から生み出したような白い手で開いた棺の縁を掴んで身を起こし、今では身に馴じんで久しい波に上下する浮遊感のある漆黒の床に立った。
 真っ黒の猫が待ちかねていたように甘えた声を上げて足首にすり寄ってきたので、殆ど無意識のような動作で喉を掻いてやった。
 ヴァンパイアの鋭い聴覚でなくとも、甲板を走り回る足音と複数の人間の切羽詰った声が聞こえる。
 そしてこの船に、人間はいない。少なくともそう呼んで差し支えないモノはいないのだ。
 昼の眠りを破るには十分すぎる異変だった。
 またどこかの愚かな海賊が裕福な商船と侮って襲撃を企てたかと、むしろ殺戮と飛び込んできた餌に対する高揚で薄く笑った。
 黒い船体の船は呑気な商船というより海賊船のように見えるが、舵すらも定まらぬ動きの船を見て強敵と言うよりも餌食にしようと判断するものが多い。おかげでヴェレッドは狩りに赴くことなく、あちらから出向いてくる娯楽と血に欠いたことはない。

 船の最下層の船室からゆっくりと埃が薄く覆った階段を上がり、焼くというほどではないが不快な明るさに眸を眇め、甲板へ続く跳ね上げ扉を開くと、その場にいた視線が突き刺すようにというよりも縋るようにいっせいに自分に向けられたことに、多少の驚きを覚える。
「この船の持ち主であらせられますか」
 いささか古めかしい口調で言葉を発した男に一瞥を投げると、海軍らしい制服を着崩した男が慇懃な一礼を返してきた。
 海軍に詳しくはないが、このように着崩すことが推奨されているわけではないことぐらい知っている。かといってありきたりな海賊が、海軍を襲って手に入れ装ったと言うには荒んだ印象を受けないのが不思議だ。
「いかにも。来訪にしては無粋だ」
 ヴェレッドは気怠げな、そして感情が読めないほど抑揚のない声で応じた。相手から人と魔の混じった気配を感じる。おそらくここにいる幾人かは魔族と何か契約を交わしたことがあるのだろう。力や命や欲望のために。
「海難の合図を出したのですが反応がなく、漂流船かと判断いたしたゆえの不躾な訪問、お許しいただきたい。しかしながら我らが船長の生命の危機。なにとぞ寛大な慈悲をかけていただけませぬか」
 ヴェレッドはその無表情さが相手の感情を落ち着かなくすることを知ってか否か、焦れるには十分なほどの沈黙を置いてから
「我は魔物ぞ」
 と告げた。
 予想通り、ヴェレッドを縋るように見ていた視線が仲間同士不安げに交わされる。
 だが最初に話しかけてきた男が、さらに一歩進み出た。
「魔族にも情に厚く義を尊ぶ種族がいると聞きます。この船の主にそれを願うのは愚かでございましょうか?
もしも貴殿が見境なく人の命を玩ぶことで無聊を慰めるならば、我らはすでに挨拶すら適わなかったと」
 ヴェレッドの眸がすっと細められた。気分を悪くしたようでもあり、同時に面白がっている部分もある。
男たちが返答を待つ間に緊張から唾を飲み込み、体温が上がって汗が滲む臭いを感じた。
「お前のよく回る頭に免じて、怪我人を運び込むことを許す。だがこの船には船医もいなければ、人の腹を満たせるような食料もない。そしてこの船は決して陸に寄港できぬ。早急に救援を求める使いを出すことだな」
 ヴェレッドはそう言ってから初めて、男たちの背後のはるか波間に、黒煙を上げて傾く船に気づいた。
 3本マストの帆船だがフォアマストは折れており、船体は竜骨がむき出しになるような大穴を空けられ、そこから容赦なく浸入する海水でどんどん傾いている。どれぐらいの乗組員がいたのかわからないが、沈没の渦に巻き込まれまいとする小船が必死に帆船から距離をとろうと動いていた。
 視線を戻したときには、目の前にいた男たちはそんな小船の一つから帆布のようなもので作った即席の担架に似たものでくるまれた人物を、小船から慎重に引き上げようとしているところだった。
 潮風に混じり、血の匂いが漂う。
 ヴェレッドは不快そうに眉を寄せた。
「キャビンは無人だ。好きに使え。だが中甲板より下に降りることは断る。こちらを訪ねようともするな」
 ヴェレッドの言葉に男たちは一瞬ぎょっとしたように振り返り、そして誰もが無言で頷いた。
 昨日、眠りについたときはいつもと変わらぬ波音しかなかった船内が、にわかに緊張した声と怪我人の呻きと血のにおいで埋め尽くされる。
 普通の人間ならばやれやれと肩をすくめるであろう変化と光景に、ヴェレッドは一切の興味が失せたように背を向けると、再び暗く静かなねぐらへと降りて行った。

 


Next