黒と赤

【聖48】 眠りにつく前に 2

 ルベウスは、自分の寝起きしている場所がお世辞にも整然としているといえないことは承知しているが、デキウスの部屋に比べればなんと混沌としていることかと改めて思わざるをえなかった。それほどデキウスの部屋は何もなく、白い殺風景さとよそよそしさを感じさせる。あたかもこの場所は借り物にすぎず、本来の自分の居場所ではないことを主張しているようで、使用人がわりのアストラルが手入れし整えた軍装すらよそよそしく見える。
 プライヴェートな空間を持つという感覚は生粋の聖族ほど薄いが、そうでない者が多い中級クラスの聖族の間では、個の領域に重きを置く者が多い。デキウスも地上において旧神であったにも関わらず、聖界での自分の館を自分に合う快適なものにしようと言う努力は一向に見られなかった。
 彼が拘ったものといえば、寒々しいほど広い空間に置かれた寝台だけだ。それも贅沢というものではなく、彼がその上で楽しむことが好きな割には誰かを招くことを意識した部分は感じられなかった。それどころか、寝室には軽い闇の結界が張ってあったぐらいだ。
 過日の冥界軍との戦いで、聖族たちの多くが嫌がる魔力の融合を使って仲間の窮地を切り開いたルベウスとデキウスは、もともとが心身ともに枯渇しかけていた魔力を無理に使ったあと、さらに肉体を酷使して物理的に戦ったこともあって、撤退時は他者の手を借りなければならないほどだった。
 それでも聖界に戻り何かと消耗する肉体を解いてアストラルになれば、神々からの恩寵で素早く癒されるのだが、アストラルに戻れぬほど穢れを溜めて疲弊しているときは、ひたすら自己回復に努めるほかない。
 ルベウスは主人でもある五神の一人のシャリートから力の助けを受け、聖界に戻った状態からは想像できない回復ぶりで翌朝には通常の仕事に戻っていた。文書館で記録をつけ、報告された資料を読み、下級の聖族たちに教育と指導をし、淡々と日々の仕事をこなした。そして同じように繰り返した翌日の夕刻、フィディウスに呼び止められた。
「討伐後、デキウスを見かけたか?」
「いえ? 春の館あたりで羽を伸ばしているのでは?」
 またか、とフィディウスが渋面を隠さないのを見て、ルベウスも苦笑する。旧神たちの奔放さは今に始まったことではないが、それに対するフィディウスの態度も石のように変わらない。彼らの存在はやがて薄れるか曖昧になるのを拒むことで神々に吸収され一つになることも多いとはいえ、そうなるまではフィディウスにとって好ましい存在ではないようだ。
「見かけたら斎戒宮(ピュアファイ)へ来るようにと伝えてくれ」
「何かありましたか」
「先の討伐でダメージを負ったものを、グラティエルが慰問しておられてな」
「斎戒宮に集合させていると?」
「個別にお尋ねいただくわけにはいかぬだろう」
「なるほど」
 春の館で誰かに耽溺しているぐらいなら、そんな癒しの恩寵も必要あるまいと思ったが、その言葉は礼儀正しく飲み込んで一礼して辞した。

 そして誰が戦いで傷つこうが堕ちようが変わらぬ、陽気で享楽的な春の館で消息を尋ねたが、ルベウスの姿を見て驚かれこそすれ、デキウスは見ていないとの同じ答えを複数からもらった。挙句、最後の選択肢であったデキウスの館へと足を向け、寝所にめぐらされた緩い結界の前に立っていた。
 この場所を訪問しようとして尋ねたことは数えるほどだ。それもルベウスにとって特別な用事が──地上で手に入れた美しい遺物の穢れをデキウスの闇で吸収させるという内密の取引をする時以外に訪れたことがない。
 夕刻に近い時間で、日中の白々とした明るさが少しばかり薄れて室内も柔らかな明るさになっており、緩い結界はルベウスが触れると水面のようにさざめいて揺らぎ、侵入を許した。
 室内で唯一の家具といっても差し支えないベッドに、デキウスが眠っている。
 声をかけたが目覚める様子はなく近づいて顔を覗き込むと、以前フィディウスに聞いた、深い昏睡のような眠りに陥っているように見えた。
 闇と同化する眠りで、あらゆる回復を助けるらしい。手の甲で頬に触れると、いつもより少し冷ややかな気もする。ルベウスは寝台に腰かけると、不思議な眠りの中にいる友人の顔を覗き込むようにして見つめた。
 穏やかに伏せられた目蓋を縁取る睫まで銀糸なのだなと、当たり前のことを思いながら、指先で額から鼻梁にかけてかすかに触れてたどる。そして鼻先から唇に触れたところで留まり、軽く下唇を撫でた。さらに顔を近づけるとルベウスの長い髪がデキウスの頬に落ちかかる。
 まったくの無反応であり、無防備な眠りだ。聖界で誰かの命を狙うと言う愚か者もいないが、それでも恩寵を受け入れればこんな眠りに陥ることもなかろう。それを敢えて馴染んだ闇に身を浸そうと言うのだから、デキウスたる男がいかにこの世界で異質なのかも知れる。
 ルベウスは口角を上げて笑うと、耳に口を寄せて「寝首をかかれるぞ」と甘い口調で囁いた。どうせ深い眠りにいる男には届くまいと。
 ピクリとも動かなかった腕が持ち上がり、ルベウスの髪ごとうなじを抱き寄せ、ゆっくりと鮮やかな蒼の双眸が目蓋から覗いた。
 抱き寄せられるまま、無言で軽く唇を触れさせる。
「起きているとは思えなかったが」
 キスから顔を上げて、ルベウスはまだどことなくぼんやりとして見える眼差しに笑い、目尻にも唇をつけた。
「眠っていた。だが結界にお前が触れたことを闇が伝えにきた」
「フィディウスの使いで来た。グラティエルが斎戒宮に来られ、癒しの恩寵を施してくださるそうだ」
「不要」
「の、ようだな」
 苦笑しつつ伝えておく、と身を起こそうとするルベウスをとらえて、今度は胸に抱きとめた。
「せっかくだ。どうせなら寝ていけ」
「何度も言うようだが……、眠る必要がない。それに今まで十分寝ていたのだろう?」
 起こしかけた姿勢を崩され、胸に頬をつけたままいささか憮然とした口調でルベウスが反論する。
「俺も何度も言うが、回復に必要というだけではない」
「添い寝ならば、私でなくてもよかろう?」
 その答えに、デキウスが苦笑する。
「俺は少なくとも信頼している相手を選ぶ」
「私を信頼していると?」
 ルベウスの表情が不機嫌そうなものから、少しばかり面白がるような表情になった。デキウスはその顔を頬からうなじへと撫で、そのまま背へ続くカーブを撫で下ろしていく。
「この部屋に入って俺を見て、どう思った?」
「無防備だなと。まあ寝ている時など誰でもそうだろう」
「そんな時間を共に楽しむ相手は選びたい」
「私は楽しめないぞ」
「慣らす」
「横暴だ」
 いつものような言葉遊びに笑いを含ませながら、ルベウスはデキウスの顔の両側に手をついて見下ろした。長めの髪が肩から落ち、暮れなずむ外の光が表情に艶を添える。
「一つ問題がある」
「何だ?」
「それ以上を──欲しくなる」
 デキウスの目が細められ口角が上がり、背を辿っていた手が意味ありげに双丘へと降りていく。
「いつでも応じるが?」
「だから困る」
 ルベウスは苦笑すると手を軽く払いのけて、身を屈めて顔を寄せた。
「お前は眠りに落ちるから良いのだろうが、取り残されたこちらにすれば苦痛だ」
「では、お前の意を尊重して聖界ではお前を抱かない俺の苦痛は?」
 ニヤリと歪められる唇に、ルベウスが「おや」というように眉を上げた。
「紳士だとは知らなかったな」
「よく言われる」
「ならばせめて、添い寝で大人しく抱かれていろと?」
「さすが頭の回転がよろしいようで」
 ルベウスは思わず目を天上に向けて溜息をついたが、あきらめたようにデキウスの胸に身を預けた。再び両腕が背に回されて抱きしめられ、体からかすかに立ち上る花の香りを確かめるように肩に鼻を摺り寄せられた。深く息を吸うデキウスの胸の上下を体の下で感じていると、体勢を横向きに変えられ背後から腕を廻された。何度も囚われた抱擁の檻だ。
「窮屈この上ない」
 ルベウスの苦情に、背後のデキウスが忍び笑いを漏らす。
「慣れる。そのうちこれが落ち着く」
「諦める、の間違いではないのか?」
「それでもいい」
「お前はどこまでも物好きだな……」
「お前も仕事相手に請われなければ、添い寝などしないだろう?」
「もちろん」
「特別を感じる、簡単な手段だ」
 デキウスは背後でそう呟くと、小さな欠伸を漏らした。
「抱かれているうちにどうしても我慢できなくなったら、腕の中で自慰していてもかまわんぞ」
「そんなことになったら、二度と付き合わぬ」
「ではそうならぬよう、ルベウス殿の自制心に祈ろう」 
 デキウスが可笑しげにくすくすと笑い、ルベウスはその振動を背で感じた。体温の温かさと親密さと、自分を信頼するという言葉が何かを溶かす。落ち着かないが不快ではない。意に添わぬことならば払いのけて出て行けば済むことなのだ。この男の我侭に付き合っているとは、自分でも驚きだった。
 しかしそれを言えば、何が何でも自分を腕の中に抱いて寝ようとする背後の男は、したり顔で笑うのだろう。得意げに。
 それは何となく面白くないな、と思いつつまた溜息を漏らして、暗さを深めていく外の空の色を眺めた。
 それでも信頼する相手に無防備な時間を預けたいという、デキウスの言葉の特別感に心を擽られる。
 この男は何を持って自分を信頼できると判断し、同じく自分はなぜこの男を信頼して密輸のようにして持ち込む地上の美しい穢れた遺物を預けるのか。
 恐らくそれは、初めて出会ったときに感じた、他にはない特別さ、異質さだ。それが二人を今いる場所まで近づけたというならば、きっと関係が続く限り相手にとって特別な位置を望み続けるだろう。
 それが腕の中だというならば、例え眠りにおちるにしては窮屈で迷惑だとしても、他の誰かに譲ってやれるものではないのだろうな、とルベウスは苦笑した。
 さらには明日、フィディウスにデキウスを斎戒宮に連れて行けなかった言い訳を考えつつ。

 


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