黒と赤

【AD01】 『邂逅』

 葉が一枚もない枝に氷がびっしりと張り付き、その隙間から驚くほど蒼い空が見える。
 背に血で染まった翼をだらりと落とし、子馬ほどもありそうな有翼のダイアウルフが雪を蹴る足を留めて、その上空を仰いだ。キラキラと氷が風に流されて煌く向こうに、真昼の流星のようにもっと白く輝く光が見える。
 聖族だ。
 人の耳には届かぬ、進軍の喇叭の音がする。
 どうやらようやくアケロイディス山脈の何処かから這い出てきた冥王の配下たちに気づいたのだろう。
 いくつもの人の村が焼かれ、殺され、土地が穢されてからでなければ、聖族軍は現れない。いますぐ神の助っ人が欲しいと祈っても、届くのがその頃なのだ。だから今も地上の神は大切に祀られる。
 少なくとも祈りが届くのが早い。
 カルハロスは雪を一塊食べることで、口の中の魔族の血の味を洗い流すと、空には興味を失ったように再び駆け出した。三日間、不眠不休で伝令の早馬のような速さで走り続け、時には翼を使って谷を越え、自分を必要として祈りを捧げた村から村へと群れを率いた。村が全滅する前に間に合ったときは群れの一部を守りに残し、道中を戦い続け、気づけば今はもう自分だけだ。そして翼は傷を受けたことと酷使したせいで、片方は地を擦るほどのダメージとなり癒えるまで使い物にならない。
 気持ちだけが焦る。
 人の子として生きる、遠い先祖で我が血を受けた眷属たちの悲鳴が、血のつながりを通じて身を苛む。
 凍てつく大気を叩く翼の音に、走りながらもう一度視線を上げると、武装した一人の聖族が舞い降りてきた。
「そこのダイアウルフよ、この近くで魔族の災禍にあったという村は知らぬか」 カルハロスは冬の夜明けの空のようなサファイアの目でじっと相手を見つめ返す。
 無能め。この渓谷一帯の村がすべてだ、と心の中で呟いて、無視を決め込む。
「口がきけぬか。獣姿ではいたしかたあるまいか」
 嘲りを僅かに含んだ口調も聞き流し、足も止めずに駆け続ける。
 聖界の聖族たちは、地上の神を軽視するものが多い。それも当然だろう。彼らには彼らなりに忠誠を誓っている神がいるのだ。世の創世の頃からの双子神。そして三柱の神。
 すると今度はまた別の聖族が少し先の地面まで舞い降りて足で降り立ち、真っ直ぐに走ってくるカルハロスに向かって礼儀正しい一礼をしたのだ。
 六葉の翼、美しく自信と品格に満ちた挙措、言われなくてもそれとわかる大天使だ。
 さすがにそれを無視するには、カルハロスは真面目すぎた。
「仲間の非礼を許されよ。我らは神の使いであって、あなたのような神ではない。そんな使者が神たるあたなに礼を失したことを深くお詫びする。
 私は聖族軍を率いるグラティエルと申す者。
 本当に行き先を見失っているのだ。行けども行けども、家畜の一頭も命のあるものがおらぬ。我らの神に祈りを捧げた者たちはどこなのかと」
 カルハロスは相手の色の薄い双眸をしばし見返してから、喉を使わずに相手の頭に直接イメージを送ることで話しかける代わりにした。相手はそれを自分の知る言語で置き換えるだろう。
『我はカルハロス。アケロイディス山脈から西、そして南の街道に接する村ならば、どこでも聖族の手を必要としている。そして恐らく、お前の神に祈った者たちはもう転生の門をくぐっているだろう』
 グラティエルと名乗った見目の華やかな青年の眉が寄せられ、表情が険しくなったが、すぐに深々と頭を下げた。
 春の陽光を思わせる輝く金の長い髪が、さらさらと肩から落ちる。
「ここはあなたの力の及ぶ土地。その者たちを亡くされたことには心より哀悼の意を表する。そして我らも微力ながら、穢された地を浄化し一人でも多くの命を救うために全力を尽くそう」
 そして空を振り仰ぐと、長剣を掲げて身振りで地上からは見えない仲間に指図をし、先ほどの使者も合流するために舞い上がったのを見届けてからもう一度カルハロスに向き直ると、同じ目の高さになるように片膝をついた。
「非礼の詫びに、その傷を癒すことを許してもらえぬか?」
 傷と言われてカルハロスはだらりと下がった片方の翼の存在を思い出し、そのような姿の自分を若干恥じた。
 不要、との意思を伝えて思わず後ずさる。だがグラティエルと名乗った熾天使は温かともいえる微笑を浮かべて両手で抱擁しようとでもいうように手をさしのべてきた。
「あなたの矜持を傷つけようと言うのではない。その翼が回復すればそれだけ早く辿り着ける。それだけ多くが救われる。思いは同じだ。
 だからどうか……」
 実際、こんな場所で聖族と押し問答をしている時間も惜しいのは事実だ。カルハロスは渋々目を伏せて、身に触れても良いということを伝えるように控えめに頭部を下げた。
 何も言わず、グラティエルの手が傷を負い大地を擦ってさらにボロボロになっていた白銀の翼に触れる。一瞬、凍てつくような鋭い痛みが翼の付け根を駆け抜け折れていた部分を修復すると、すぐに温かで優しいエネルギーが一瞬で翼のみならず全身に満たされ溢れだす。
 カルハロスは初めて知る聖族の癒しに身震いすると、その圧倒的な生命の塊のようなエネルギーに驚愕し、そしてたっぷりとした食事と睡眠をとったあとにも勝る充実した自分の身体を感じた。
 グラティエルは手を離してゆっくりと微笑むと身を起こし、一度だけ振り返って頷くと、鳥よりも優雅に力強く羽搏いてあっという間に輝く光となって遠ざかって行く。
 何かを尋ねるでもなく、別れを告げるでもなく、当たり前のことを親しいものにしただけというような素っ気なさで。
 カルハロスもそれが見えなくなる前に視線を前方へと据えると、大地を蹴って舞い上がり、癒された翼でおのれの助けを待つ眷属の元へ急いだ。

 のちに聖界の軍の要となる二人が再び邂逅するのは、まだ暫し先になる。