黒と赤

聖34 お題【8/12】

甘えるってどうすればいい?/いびつな笑顔/どうしても分かりあえない


 シャリートはルベウスからの問いに、手にしていたお気に入りのティーカップを落しそうになるぐらいの衝撃を受けたが、とりあえずそれをテーブルに置いて問い返した。
「なんだって? もう一度」
「甘えるとはどうすれば?」
 ルベウスは眉間を寄せ、どちらかといえば険しい表情で考え込んでいる。
「誰かに甘えろと言われたのか?」
「貴方です、我が君」
 シャリートはそうだったかと頭を傾げた。どうせ会話の流れで「少しぐらい甘えろ」などというたいした意図もなく使ったのだろうが、ルベウスは本気で考え込んでいたらしい。
「あ、あぁ……、深い意味はなかったのだろう。気にせずともよい」
「はい」
 そう答えながらも、ルベウスは一向に納得した様子のないまま、あるじに供された紅茶を飲む。
「甘えられる相手でも作ってみたらどうかね」
 ルベウスの熱の無い双眸がいっそう温度を下げて細められた。
「媚態をつくせと? 仕事ならば」
「そういうのは甘えると言わない。気に入りの相手とか」
 ルベウスの表情がいっそう深刻になり、顎に指を添えて考え出したので、シャリートはやれやれと肩をすくめて席を立ち、ルベウスの傍らに立つとうなじに手を添えて上を向かせた。
「自分の弱みを見せてもよい相手なら、容易かろう?」
 薄蒼の目がシャリートをまっすぐに見返す。
「やはり我が君のことでは」
「そういう甘えはお前からは期待しておらぬよ。バールベリスあたりで十分だ」
「はぁ」
 期待していないと言われたのがまた引っかかったのか、ルベウスも腑に落ちない返事をする。
「お前が――そうだな、命を預けられる程度に頼れて、適わないと思える部分があって、同時に愛しいと思えるような相手がいたら、自然と出るのだろう」
「畏れ多くも申し上げますなら、私の中ではそれは我が君になりますかと…」
「愛しいか? お前のそれは忠義愛だがな」
 シャリートは苦笑すると手を離し、どうしたものかと腕を組んだが、ふと思いついたように視線をルベウスに戻した。
「デキウスに尋ねてみよ」
 ルベウスは御意と答えたものの、その表情は明らかに困惑と疑問と不満が薄く同居したものだった。

 その頃デキウスは、旧神の娼館の代名詞でもある春と豊穣の館で複数のものと交わることを愉しんだあとの、他愛ない雑談に耳を傾けていた。
 誰かの話からルベウスの話題になる。
 最近、討伐のときがいっそう近寄りがたいとか、そのせいでさらに誰かの閨に招かれて仕事をしているのが想像できなくなったとか、いっそここに招いたらどうかという下世話な話題にまで広がり、デキウスが「ああいうタイプに限って落差があるんじゃないか?」と発言すると、同意と否定の喧騒が広がった。
 同意派は仕事でのルベウスの甘く優しい態度と事後の事務的対応の落差を言い、否定派はデキウスの妄想の酷さを哀れんだ。だいたい仕事や付き合い以外で、ルベウスが笑ってくれるかどうかさえ疑問だと言う声まで出る始末だ。
「いやそれは、案外よく笑っているだろう?」
 デキウスが頭をひねる。
「冷笑、嘲笑ではなく? 討伐で獲物を見つけたときとか?」
 さらにデキウスを心配するように悪友たちが顔を覗き込んで来る。
「悪いことは言わないから、落すのを諦めるか、さっさと一晩お願いして現実を見たほうがいいぞ」
「俺の幻覚か?」
「斎戒宮で浄化してもらったほうがいい」
 デキウスは思わず苦笑すると、それには同意して館を後にした。
 悪友たちの勧めがなくとも、これから立ち寄ろうとする場所にいくために斎戒宮で穢れを落し、すっかり馴染みになった聖遺物の一次的な保管庫でもあるルベウスの塒を訪れた。
 いつものように娼館で嗅ぎなれた香りと似た薫香がゆったりと漂い、遺物のせいで色や形に溢れているにも関わらず薄暗く落ち着いた空間。
 いつものように自分の周りに本をちりばめ、その環の中に閉じ込められたようにルベウスが本を読んでいた。珍しく地上の書物だ。
 デキウスの来訪にちらりと目をやり、傍らに少し場所を空けてくれたので遠慮なくそこに腰を下ろす。
 本を読むためにうつむいて落ちる髪に触れながら、ルベウスが笑うのかという話題になったと話すと、いつもなら馬鹿馬鹿しいととりあいもしない彼が書物から顔を上げて、デキウスをしげしげと見つめてきた。
「なるほど笑うことを想像もできない相手は、甘えることも想像できないものだな」
「は?」
 思わぬ返答にデキウスのほうが怪訝な顔をする羽目になったが、ルベウスは逆に薄く笑う。
「いや、いいことを聞いたと思ってな。我が君の助言は正しかったわけだ」
 そういうと本を閉じた。
「助言? なんの?」
「甘えるというのがわからぬので、というやりとりをした。最後にお前に聞けと」
「どうしてそう、何でもここで考えようとするんだ、お前は」
 デキウスは呆れながらも笑い、ルベウスの額を指先で軽く突いた。ルベウスがその手を捉え、手首を撫でるようにして指先を握った。
「ではお前は甘え方を知ってると?」
 試すような目で指の関節に唇をつけてくる。
「それはお前のここに聞け」
 また額をつつかれ、ルベウスは少しばかり不機嫌そうに目を眇め、口を開いて関節に牙を軽く立てた。デキウスの指が愛撫するように口腔に入り込んで来る。その戯れに不機嫌そうな目元が緩み、代わりに温度の薄い眼差しに何かが点る。そしてもっと次をねだるように、上体の重みがデキウスへとかけられてくる。
 この表情を見て無い限り、笑顔も甘える姿も遠すぎるのだろうな、と思うと、デキウスの口端に少し得意な笑みがこみ上げて浮かんだ。
「何を笑っている?」
 ルベウスが口腔から指を開放したが、それを絡めて握り締めながら今度はキスをしようというように下から視線を掬い上げて来る。
「俺のちょっとした優越だ」
 デキウスは教えてやらなくてもいいだろうと思いながら、ルベウスの主人すら知らない表情を独占しつつ、彼を腰を抱き寄せ撫でながらいつものように床へと身を倒した。


 

甘えるということ