黒と赤

聖16 初恋(ぬるめのお題029)

 

 ルベウスは目の前の完璧ともいえそうな美貌の少女に身を屈めて微笑み、逢瀬を約束するような優しい口調で言った。
「堕ちますよ? その気持ちは」
 少女の顔が強張り、唇をきつく噛みしめるとその場に立ち尽くして顔を覆った。クリスタルのような涙が零れ落ち、地面に白い花が咲く。物見高く遠巻きに二人を見ている旧神たちがひそひそと言葉を交し合った。
 蜂蜜色の緩やかなウェーブの長い髪、薔薇色の唇、潤んで大きな露草の瞳、そしてほっそりと若草のような瑞々しい肢体。好色な旧神たちの誰もが褥に招きたいと望み、そしてそれが間 違いなく堕天に通じる行為だと知って見守っていた処女神の娘だ。
 フィディウスからルベウスに預けられ、彼がエスコートしていたのは誰もが承知していたことで、処女娘は無邪気な信頼を彼に寄せ、大層懐いているように見えた。
「斎戒宮(ピュアファイ)に行くことをお勧めします。ご同行いたしましょうか?」
 どこまでも甘い口調で優しい微笑だ。これが彼の仕事の仮面だと知らなければ、世事に疎い娘ならばやすやすと恋に落ちるであろうと想像に難くない。
「今回ばかりはフィディウスの人選は誤りだったのでは?」
 という囁きが聞こえる。
「いっそ老木だの古石だのの爺さんに任せればよかったんじゃないか?」
「纏っている肉体が爺さんだからといって、無欲にあらずだろうが」
「違いない」
 ひそやかな笑い。
「せめて女神に預けられればよかったんだろうな」
「夜な夜な嬌声が止まないような女神の館なら、ルベウスの物置のほうがよほどいいだろうよ」
 ルベウスが娘に向けている眼差しとは正反対の凍るような一瞥を囁きに投げると、噂好きの声は静まった。娘が何か呟き、身を屈めてその声を拾ったルベウスが頷く。
「わかりました。お一人になりたいとおっしゃられるならそういたしましょう」

 そして慇懃な一礼を残して、その場を去った。

 物見高い連中の輪が解け始めた頃、デキウスは欠伸をしながら娼館と影で囁かれている豊穣の館から出てきた。
 何かあったのかと、顔見知りを掴まえる。
「ああ、処女神がルベウスに恋をしたらしいぞ」
「はあ?」
「もともと処女神ってのは初々しいから惚れっぽいんだ」
「そんなもんか」
「抱かせてはくれないがな」
「飾り物か」
「で、ルベウスに斎戒宮へ行けと、普段からは考えられないような甘い口調で言われた」
「そりゃ無慈悲で的確なアドバイスで……」
あまりにも我が身に思い当たり、失笑まじりに相槌を打ったのだが、まるでそれは快楽の手練手管に長けたデキウスにとって、馬鹿馬鹿しいというような感想にも周りは受け取れた。
「お前が篭絡してりゃ、もう少しマシだったんじゃ?」
「俺が処女神をか? 面倒くさい」
「違う、ルベウスをだ」
肘でつつかれ、デキウスは渋面を作り、処女神が流した涙から生まれた花を足先で触れた。涙の花は儚いのか、もはや萎れて消えかかっている。
「お慕いしておりますか。いつも初恋みたいな処女神じゃ重いな」
 誰かの声がそう呟いて遠ざかる。
 慕う、想う、執着、嫉妬、羨望、怨恨、これらが全て神のご自慢の愛から派生で生まれるとしたら、なんと皮肉なことか。
 神の解く愛も人の愛もわからなかったが、最近はっきりと穢れとして残るものの存在は知っている。
 それを告げたら、ルベウスは処女神に向けた笑顔と甘い口調で同じことを囁くのだろうか。
「斎戒宮(ピュアファイ)に行くことをお勧めします」と。
 どうせなら同じ炎で焼かれてもらいたいものだが、と薄く笑って処女神の流した涙の花を踏んで立ち去った。

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