黒と赤

聖015 「僕の価値は君次第」

お題 「僕の価値は君次第」


 

 双子神、エウシェンとルーフェロの溝が対立と呼ぶに近くなってきていたが、それでも五神が一同に集まるときは薄氷の平和を保っていた。兄のエウシェンが至高神を名乗ると宣言したときよりも、神の絶対的な善と愛、永遠の幸福を強く押し出したあたりからいっそう捻れてはいたが。
 もとより双子神を支える混沌の王・アコールも水と竜を統べるルートゥアン(シャリート)も彼らを助けるためにその地位に就けられたのであって、二人の対立を広げるものではなかったが、彼らとて自由意志があり、エウシェンの考えを良しとしなかったゆえに、いっそう事態は混迷を極めていった。

 シャリートは聖界の自宮ではなく、オディールの城で静寂を愉しんでいた。当時のこの地上の小さな島には人は殆どおらず、下級の魔族が地上の生き物と同じぐらいのバランスで生息していた。何より近海の海は水の眷属に、山は竜の眷属に護られており、人であれ聖族であれ彼の許しなくしては近寄れぬ場所でもあったのだ。
 ルベウスは久しぶりに纏った肉体に慣れぬ違和感を抱えたまま、地上の主に呼び出された。実体は不快ではないが、長くアストラルでいると閉じ込められた感じがどうしても拭えないのだ。
 デキウスが来る前は討伐と降臨の時以外は肉体の器を取る機会も殆どなかったが、彼が身近にいるようになってからは回数が増えていた。しかし最近はどうも彼の機嫌が悪いらしくあまり接することがない。
 来訪を告げ、入室を許可する声に重厚な扉を押し開き、常のように膝をついて挨拶をしようとしたところで、面倒そうに遮る声で立たされた。
「暫く顔を見なかったが息災か」
 どこから見ても非の打ち所の無い人間の貴族然とした装束を纏い、天界とは異なった短い髪を撫で付けた主が、いつもの紫の双眸でルベウスを観察するかのように見つめる。精緻な彫刻を施した椅子に腰掛け、頬杖を付いている様子は、横柄な王のようでもある。
「我が君のお力添えをもちまして」
 視線を落とし、ルベウスは礼儀正しい態度で頭を下げた。
「ここに招いたのは他でもない。お前も知っていようが、恐らく近々聖界は分裂する。私はエウシェンには付かない。
お前は私の子飼いの一人だが、絶対の服従と忠誠を要求したことはないつもりだ。聖界に連れては来たが、今なら望むならば地上に戻すこともできる」
 ルベウスは主人の言葉に怪訝に片目を眇めた。
「何を――」
「そう、何を今更、だな。服従と忠誠を要求したことも無いが、側を離れ自由にしてよいとも言わなかった。私は狡い」
 口の端で笑いに似た表情を作ると立ち上がり、ルベウスの顎を軽く摑んで顔を伏せさせないようにする。
「なのでいまここで己の言葉で語れ、ルベウスよ」
「我が君のお決めになられた道に背かず御供させていただくことが、望外の歓びであり私の意志です」
 目をそらさずに穏やかな表情で淀みなく答えるルベウスに、シャリートは「模範すぎてつまらぬ」と鼻先で笑いながら顎を摑んだままの姿勢で顔を近づける。
「考えることを私に押し付け、それに従うことで己の価値を得ようとするか」
「お言葉ながら我が君、私めの価値など我が君あってこそ生まれるものでございます」
主人の言葉を理解しかねるように、ルベウスが答えた。
「では考えよ。私はお前を捻じ伏せ、考えを縛り服従させることができるが、そうせぬ意味を。お前は確かに相手の心を映して己の志とする鏡を持っているが、今私が望んでいるのはそうではない。
 お前の意志だ。
 お前がその目で見て、その心で感じることだ。
 そしてそれがお前の価値だ」
 シャリートはそう言うと、ルベウスの額から瞼、鼻筋、唇から顎へと官能的な指先で撫でた。まるで作品の出来を確かめるかのように。
 そして再び椅子へ身を沈めると、興味を失ったように片手を払ってルベウスに辞すように促した。
 ルベウスはいまひとつ釈然としないものを抱え、城を出る。
 我が主人は時々難解なことを要求する。確かに今回の登城の要請の最大の理由は天界が今後どう動くかを教えることだったのだろう。
 だが主人に従わぬ可能性という考えの発想もない自分にとって、ましてや地上に戻すという言葉は予想外すぎて戸惑いを引き起こす。
 翻って考えれば、主人が自分を必要としないということか。
 そうであるならば己の無能を恥じて、地上へ戻ることもあるだろう。

 黙々と石畳を見つめながら歩いていて、ふと足が止まる。
 誰か似たことを言わなかったか?
 脳裏の記憶を手繰り寄せ、その会話がデキウスだったことを思い出した。
 寝るならばすぐにでもできる。だがそうしない理由。
 ルベウスの意志。

 デキウスが触れたがるから、髪にも肩にも触れさせる。そこに嫌悪も反発も無いのは事実だ。
 だが触れられたいか、と言われると思考が止まる。ルベウスから彼に触れるのも、彼が喜ぶであろうからだ。だがそれは欲していることかと言われると今のように立ち止まってしまうのだ。
 とりあえず我が主人よりも答えを得やすそうな相手に会おうと、ルベウスは地上を離れた。

 斎戒宮(ピュアファイ)での一件があってから、闇に穢れた美術品をデキウスのもとに持ち込んで手を煩わせることを控えているが、そのせいか討伐で顔を見ることはあっても会話を交わすことは激減していた。そして何より相手が不機嫌だ。
 過ぎた喜怒哀楽は、天上では扱いが難しいとされる。うまくコントロールできれば問題ないが、そうでなければ斎戒宮に行くように勧められるほどだ。
 そして例に漏れず、デキウスはよく世話になっていた。
 討伐の召集がかかっていないので、デキウスがいま一番いる可能性が高いのは旧神たちのどこかの館だ。気配を辿れればいいのだが、そこまでの絆は無い。さらにデキウスの性質が闇であることが追うのを難しくしている。
 とりあえずデキウスの館を覗き、幾人かの旧神に見かけなかったかと尋ね、諦めて自分の棲家へと漂うように飛んで舞い降りたところへ、デキウスがやってきた。
 肉体をまとったまま銀糸の髪がしっとりと濡れていて、あちこちに愛撫の跡があるところをみると、やはりどこかの館で快楽を貪っていたのだろう。
 髪の一部分に変な癖が付いているのが可笑しくて、思わずじっと見る。
「俺を探していると聞いたんだが」
「ああ、早耳だな」
 急いできたのか、と笑うと遺物の蔵と自室をかねた中へ入るよう勧める。
「少したずねたいことがあったんだが、誰かの寝室から慌てて来てもらうほどでもなかった」
 その言葉にデキウスが憮然と「一言多い」と返すと、椅子代わりに櫃の一つに腰掛けた。
 ルベウスはその様子を見ていたが、デキウスの前に立つと膝の間に身を入れ、壁に手をついて身を屈めてすばやくくちづけた。相手が応える暇も、捉えようとする余韻も与えぬまま身を引いて、少し呆然としているデキウスを見下ろす。
「どう思う?」
 艶めいた様子など微塵もない表情で、ルベウスが感想を求めるのに対してデキウスは呆気に取られるしかない。
「どうって――、いやむしろどうした?」
 からかわれたのかと腹を立てかけたが、どうやらそうではない様子にデキウスのほうが目を覗き込んだ。
「今のは私の意志だと思うか? それともお前が喜ぶからとしたと思うか?」
「はあ……? そんなのお前じゃないからわかるわけないだろうが」
 デキウスはルベウスの髪が顔にかかるのが擽られているようで、その髪を背に跳ね上げるようにした。そして止めておこうと思っていたにもかかわらず、背に手を廻してしまう。
「いかにも。だがお前は私から求めることを望んでいたな?」
「最近ちょっと絶望気味だがな」
 半ば本音で答える。
「ではお前は私が誘ったとして、どちらだと判断するんだ?」
「また何を面倒くさいことを」
 デキウスはうんざりして顔を顰めた。
「確かにお前がどちらを演じたとしても、お前の仕事相手で同衾するなら気にならん。だがそうではない」
 そう答えて、デキウスは鳩尾に最近なじみになりつつある不快を感じた。
「ではなぜそれほど拘る? お前みたいな者が」
「みたい、とは一言多い。俺にもわかりかねる」
 デキウスは不機嫌そうに答えて、ルベウスの髪を引いた。自然と顔が近づく。
「つまらんことを頭の中で捏ねくりまわしてないで、ここに聞いたらどうなんだ」
 ここ、とルベウスの心臓があるあたりを指先でつつき、さらに手を下げて下腹部に触れる。
「思考部分や判断を肉体的反応と混同して結論するのは難しい」
 凪いだ表情のルベウスが、デキウスの湿気をまだ含んでいる髪を指先でもてあそぶ。
「そのくせ、あんな顔をする」
「どんな顔か知らぬが、それは相手がお前だからだろう」
 今度はルベウスがわからないことを言われて、面倒くさそうに眉を寄せた。
「絶望の淵から回復した」
 デキウスはそう言うと口角を吊り上げて笑ったが、同時にみぞおちあたりの不快感が増した。
「お前が探しているというから、走ってきた。質問にも答えた。
 それに対するお前の反応は、演技でもなく俺が求めているからというわけでもないだろう?」
「ああ、なるほど。こういうことか」
 ルベウスは薄く笑うと、両手でデキウスの顔を掬い上げ、ゆっくりと顔を傾けると、今度はそこまでの距離を愉しむようにして瞼に唇で触れ、こめかみに押し付け、耳の後ろにくちづけた。
まるで祝福のキスだったが、それすらデキウスにとっては艶めかしい。
「おい――」
「焦るな……」
 ルベウスは目を半ば伏せた表情でシッと小さく囁いた。吐息が耳朶にかかる。
「礼を言う」
 そしてデキウスの表情を愉しむように目を覗き込むと、悪戯げに笑った。
 腹立たしくて鳩尾の辺りの不快は増す一方なのに、その表情を見て気持ちが高揚する。ここ暫く澱のように神経を逆撫でていた怒りが溶ける不思議。
 自分にしか見せない顔。
 自分のちょっとした悪戯心を満足するためのキス。
「ああ、お前らしすぎて、呪いたくなる」
 デキウスは笑い出すと、ルベウスの胸に鼻先をうずめて体を抱き寄せた。

 

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