黒と赤

聖06 身分違い

 

 今日もさざなみのように何人堕ちた、という噂が流れる。下級天使で純粋であればあるほど誘惑に囚われると本質を犯されるようだ。特に生粋の聖界うまれで人間との接触が多いものが堕ちやすい。
なぜ神はあえてそんな落ちやすく弱いものを地上へ降臨させるのかわからないが、人の欲望に染まり堕ちやすいだけに人へのシンクロ度合いが高いとも言われていた。
 堕ちる、と一言で言っても理由はさまざまだ。階位によって誘惑を受けて揺らぐ部分も異なってくる。
下級の者たちが肉体を帯びることを恐れる理由の一つに、純粋に肉体的なことに免疫がなくおぼれやすいことがある。物質的、精神的なものにも弱い。人を一途に愛しすぎ、肉体の快楽を知り、愛するがゆえに悪にも手を貸し、嫉妬に陥り、傲慢に愛を求め、彼らは二度と天界へ戻れぬことに気づき嘆く。
 中級には旧神が多く、彼らは往々にして地上で欲望のままに過ごしてきたものが多いが、彼らはもはや下級天使たちのレベルでそれらに溺れることは無く、同級のもの同士の交渉も黙認されているが、むしろ飽いていることすらある。アストラル体で過ごす時間が多くなれば自然とそういった欲望が薄れ抜けてしまうからだ。
 彼らが求めるのは力だ。それを一番実感できる仕事が魔族に関連するもので、多くの天使が忌避する仕事を嬉々としてこなすが、力を求め続ける欲望はやがて五神を凌駕できるのではないかという落とし穴に向かいやすい。
 そして中級の者たちは堕ちるか神に能力を吸収され、消滅した。
 上級に至れば、自らが肉体の器を纏うことはほぼなくなり、ひたすらに神に心酔し、背き歯向かうものに容赦なく鉄槌をおろす。彼らにとって人間に通じる全ての欲望は矮小なつまらぬものにすぎず、神意こそが全ての喜びであり真実であった。

 下級の天使を生み出す黄金の果実【アンブロシア】は純化したアストラルエネルギーそのもので、それから作られた酒は聖族たちが好んで飲む飲み物だった。飲食する必要が無い彼らでも、それを禁じられているわけではない。ただ耽溺は許されなかったが、アンブロシアの酒はどこでも振舞われる手軽な代替エネルギー源でもあったのだ。
 ルベウスは文書館の奥で天界へ二度と戻れぬことになった下級天使の名前が羊皮紙に焼き付けられていくのを退屈そうに見守り、酒を一口含んだ。
堕ちたものたちを誰が自動書記しているのかわからないが、原初の文字が羊皮紙に現れてくるのを確認し、フィディウスに報告するのも彼の仕事の一つだ。
 しかも堕ちた天使を気にしているのも中級までというのが笑いを誘う。堕天の烙印を押す大袈裟な裁判があるとすれば上級天使たちで、それも見せしめ的な意味だ。それ以外は戻れないか、気づけば追放されているだけだった。
 神々にとって、虫の百匹が消えようが堕ちようが、あまり興味がないのだろう。なのであらゆる意味で、旧神たちがいる中級階位が一番混沌としていた。
 見知った名前がいくつも挙がっていく。
 ルベウスは地上に降りて人に関わる仕事が多いので、必然的に他の任務で降臨している下級天使たちも見かける。彼らは階位が違うので、ルベウスとすれ違うと畏まって視線を避け、恭しく頭を下げていくので顔もろくに知らなかったが、彼らの内に淀んだ穢れで彼らが天上へ戻れぬ怖れがあると報告したことは何度かある。
 自分のことは棚上げをしているとは思うが、彼らのように祓いようの無い欲望の沼に沈んでいくわけではなく、一応の自己浄化許容量を見計らって穢れに手をつけているつもりだった。
 それに最近知己になった男が存外それに向いていた。彼のお陰でさらに濃い穢れにも手を出せるようになったからだ。あの男の能力を知った日は、確かに危うかった。聖界に戻れるギリギリまで穢れを取り入れ、無様に飛行しつつ戻ったのだから。
 自動の筆記が終わり、百名ほどの名前を記憶したルベウスは館を出る。アストラル体でいることはこういうときに便利だった。肉体的五感と記憶部分を何の抑制もなく百パーセントの能力が使える。同時に複数の話を聞き、別のことを話し、違うものを見てそれも記憶するのも可能だ。肉体は便利で嫌いではないが、そういう能率は著しく落ちた。

 フィディウスは、と気を追うと『斎戒宮(ピュアファイ)』にいるようだった。地上や肉体を纏うことで自分で落としきれなかった穢れを浄化する場所だ。
 本来は熱の無い白い炎がアストラルを舐めると、穢れに応じて感じる温度が変わるという。大抵は灼熱に焼かれ、終わると最悪な気分になるという表現を使うが、神に対して強固な信念と賛美を持つものは至福感に包まれ神をいっそう感じるとも言う。
 ルベウスは出撃があったあとはたまに足を向けていたが、最近はデキウスが触れて浄化してくれるので、あまり世話になっていなかった。
 心身を清める場所なので、あとのほうが良かろうと自分の部屋もある旧神たちが居住するエリアへと移動する。


 旧神たちは許される範囲で己の生きていた場所を再現しようとするので、アストラルよりも肉に近いエーテル体でいる者も多く、肉体そのものを纏っているものも少なくない。
 そして彼らの多くは享楽的だ。神々のもつ多情さとでも言おうか。特に豊穣系や多産、繁栄の神だった連中はそのものがアイデンティティの部分がある。
 下級天使ならば即効追放になるような欲望に身を任せても、彼らの神性は損なわれなかった。だからこその旧神なのだが、生粋の天使たちにとってはまさに混沌と堕落の巣窟にも似ていた。

 ルベウスはそんな中でひときわ異色だった。人の世界にいた頃に戯れで人間の体を纏い、人間の真似事は一通り試してみたが、どれも彼にとってたいした意味はなかったのだ。眷属でいえば竜とはいえ、竜の体内の宝石が由来のせいか、享楽的な部分に理解と共感はなかった。嫌悪しているわけではないが、理解が及ばぬのだ。
 それでも居住区を行けば、あからさまな誘いがかけられる。冷たい容貌の激情家ならば、閨で化けてさぞかし楽しかろうというわけだ。
一方で彼の主人が五神の一人であるという立ち位置のせいで、できるだけかかわりを避けようとする者もいた。ルベウスにとってはどちらも意味のないことだったが、避けられる方が誘いを断る面倒がなくて良いともいえる。

 開け放った窓から奔放な嬌声が聞こえる。
 フィディウスではないが、さっさと神に吸収されてしまえば静かになるだろうにと思いながら、聖遺物と地上で呼ばれることになる美術品を保管している館に入った。
 ほとんどがルベウスが選んできたものであり、彼の居室もこの一画だ。
 誰かを招くことがないので、美術品を保管する櫃はあれど寝台すらなく、厚い絨毯といくつかのクッション、そしてそれを中心に積み上げられた本ばかりだ。それでもルベウスには落ち着く空間だった。
 ゆるゆるとエーテルの体になり、腰を下ろす。
「驚いたな、本当にここなのか」
 聞き覚えのある声に振り返ると、巨大な天使像を見上げているデキウスがいた。地上から持ち帰ったものは、色彩の乏しい天界で目を瞠るほど豊かだ。
 その中で白いデキウスが逆に浮きあがる。

「どうした? よくここがわかったな」
 ルベウスが軽く驚いた様子で尋ねる。個の空間とはいえ聖界の場所はどこであれ自分のものではない。他の者が前触れなく訪れたところで、迎えるほうも気にしないが、まさか誰か尋ねてくるとは思っていなかった。
「このあたりで聞けば誰でも知っていたぞ。倉庫で寝泊りしているとな。
 この前に闇を取りきれずに置いていったものを持ってきた。邪魔だ」
 デキウスはそういうと持ってきたらしい木箱を足先で軽く蹴った。荷物があったので肉体を纏ってきたのだろう。
「ああ、洗礼用の水盤か。手間をかけさせたな。私が取りに行ったものを」

「それだけか?」

 デキウスの言葉にルベウスは頭を傾げる。
「礼は?」
「――助かった。恩に着る、とでも?」
 唇のはしを上げて面白げにルベウスが尋ねる。
「冗談だ」
 そう言うと立ち上がり、デキウスの前に立った。デキウスのほうが心持ち背が高いが、目線は殆ど変わらない。
 ルベウスは薄蒼い目でデキウスを覗き込んでくるが、デキウスが肉体を纏っているせいか礼儀正しい距離を保っていた。自分に触れてくるデキウスには鷹揚だが、自分から非礼になることはしない男だ。

「何がご所望だ? 今は手持ちに闇落ちした品はないな」
 デキウスが顔を顰めると、ルベウスはもう一度冗談だ、と小さく呟いて肉体を纏った。
 彼の求める代償は肉を纏ったルベウスに触れることだ。
 デキウスが顎から耳へを手を滑らせ、長い髪に触れてくる。指の間に絹の糸のように落ちるそれをじっと見つめ、唇をつけた。

「お前は面白い男だな、デキウス」

 ルベウスが珍しいものを見る目でデキウスの指先に視線をむける。

 デキウスは答えず、ルベウスに背中を向けさせると背後から抱擁してうなじに口をつけた。
「もしかして――」
 従順に向きをかえられたまま、ルベウスが呟く。
「閨の相手を求めているのか?」
 デキウスの口付けが止まる。
「なんだって?」
 ルベウスの手がデキウスにかかり、抱擁を下ろさせると再び向き直った。
「手近かもしれぬが、私はつまらんぞ? この通りにはもっと楽しませてくれる相手が手ぐすねを引いていると思うが。旧神同士、堕ちる心配もなかろう。よければ紹介する」

 ルベウスのあまりにも滑らかな言葉の親切心に、眩暈がした。

これが聖界でなければ、今日が来る前に抱いていただろう。面白かろうが面白くなかろうが、自分はそうしたければ躊躇うことなどない。

 そういえば討伐部隊の誰かが言っていたなと思い出す。
 ルベウスは五神の一人から庇護を受け、恩寵も厚いと。だから神とはいえ後ろ盾のない旧神が手遊びで寝るには不適当だと。さらには、竜の体内で生まれた宝石が出自のせいか、人間の喜ぶことに興味が薄いともいう揶揄を聞いた。あれは今から思えば、誰かしかがルベウスを寝所に招いた感想かもしれない。

「お前に触れたい。それだけだ」
 色々と説明するのも馬鹿らしく、デキウスはそういうと今度は正面のまま腕を廻した。後頭部を抱き、髪が滑り落ちるさまをたのしみ、てのひらで背から腰、尻へと撫でていく。

「――なるほど」

 ルベウスがまた面白げに笑う。

 デキウスは尻を持ち上げるように掴み、下腹部を重ねた。
 ルベウスの目がわずかに細められる。デキウスの熱が伝わらぬはずがない。
 嫌悪か、面白がっているのか読めぬ表情だ。
 どこまで許すつもりなのかわからぬまま、反応を見つつ目を伏させ瞼からキスを下ろしていく。唇に触れようとしたところで、意外にも顔を背けられた。

「やめておけ」

 やめろ、ではない言葉にデキウスのほうが興味を引かれる。
「どうした?」
 ルベウスは伏せていた目を上げると、デキウスに向かって口を開いて見せた。この状況でみせられる綺麗に並んだ歯列と濡れた舌は、淫らと感じるなと言われるほうが難しい。これで誘っているつもりがないというのだから、お手上げになる気持ちもわからないではない。

 ルベウスはヴァンパイアほどではないが小さく尖った牙がよく見えるように顔を傾け、指先でつついた。確かめたか、というように目で問い「傷つける」と短く説明した。
「その気があるのかないのか……頭を抱える」

「ふむ、よく言われるが、わかりにくいか?」
 ルベウスはそう言うと、デキウスの胸に手を置いた。指先を綺麗に揃え、心臓の鼓動を確かめるような位置だ。
 愛撫をするように動いたわけではないが、その接触にデキウスのほうが喉を鳴らして唾液を飲み込んだ。
 ルベウスの骨ばった手がゆっくりと滑り降りていく。心臓から肋骨へ。その段差を確かめる程度に強く押しながら、そのまま筋肉に覆われた鳩尾へ。
 そしていつものようにデキウスの目を覗き込むと、熱へと触れかけ「違うな」というそっけない一言で手を離した。

「は? 何が違う?」

 怒鳴りそうになるのを堪え、なにやら考えに耽っているルベウスに噛み付く。

「お前は私に触れたいのであって、私に触れられたいわけではないだろう? 私も別に触れたいわけではない」
 そう言うとくつくつと笑い、肉体を解いた。
「フィディウスに呼ばれている。斎戒宮(ピュアファイ)に行くのに肉欲の痕跡をつけていくわけにもいかぬ。その後出撃だ」
 ルベウスは呆然と見えるデキウスの肩を掠めると、風のように出て行った。

 デキウスは文字通り頭を抱えると、ルベウスが常に身を預けているらしいクッションに座り込んで腹の底から深い溜息をついた。そうしたくなかったが、肉体を解く。そうでなければすぐにでもここで自慰をしそうだったからだ。なるほど、アストラルでいれば肉体的には堕ちることはないだろう。


その日の討伐はひときわ苛烈で、デキウスの機嫌がすこぶる悪く、いつも以上に血を浴びて帰ったという。

 

 

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