黒と赤

聖08 「すがりつくように」「足首を撫でる」。キーワードは「天然」


 欲望に対するルベウスの態度に、デキウスはひどく不機嫌だった。
 何も知らない無垢であるとか潔癖ならまだ我慢できるが、地上でもこの聖界でも誰かの閨房に呼ばれて付き合ったことがあるらしいのだからたちが悪い。 冷静になれば何も彼に固執することはないのだ。
 性の享楽を楽しもうとする輩はほかにもいるのだから、彼らと愉しめば良い。
 地上でもそうしてすごした。聖界で多少の不便があるとはいえ、できない相談でもない。
 ――それでもルベウスがどんな顔で感じるのか、どんな挑発を仕掛けるのか、どんな声で快楽を貪るのかと頭から離れない。
 最初は色の乏しい世界での鮮やかな赤と懐かしい黒だった。
 肉体に触れることが最大の非礼という場所で、彼は何の拒絶もしなかった。
 恐らくそれが最初の間違いだったのだ。
 触れさせてくれるのが楽しかったのは否めない。それは単純に物質に触れる楽しみだったが、回数を経るごとに彼の体温に触れたくなった。
 ふざけて腕を廻し、髪を引いて肩を抱く。
 そんな児戯にも等しいことが、何故か他のものと欲望を昇華するよりも楽しかったのだ。
「ぼんやりするな、デキウス!」
 誰かの叱責で、デキウスは我に返り殆ど反射的に剣を振り払って、自分に飛びかかろうとしていた魔物を切り落とした。
 力技で切り落としたので殆ど砕いたに近い。
 血肉が飛び散り悪臭が立ち込める。自身はいつものようにもうたっぷりと魔物の血を浴びているのでいまさら悪臭がどうのは気にならない。
 目玉に翼が生えたような醜悪な生き物が、キーキーとネズミのような声をたててイナゴの群れほどの数で襲い掛かってくる。彼らの好物は聖族の血なのだ。大して強くはないが、噛み付いて微毒をそそぎ血を吸う。また聖族を恐れぬことと数が多いのでひどく手を焼くのだ。
 後方の魔法を得意とする連中にまとめて焼いてもらわねばきりがない、と思った時、真っ白な大鴉が上空から猛禽のように舞い降り、威嚇の声をあげて炎を吐いて魔物をなぎ払う。あっという間に何十匹もが消し炭になって消えた。
 ルベウスの剣だ。彼の剣は主の手にないときは大鴉の姿をとって魔法を使う。目に入る範囲に彼はいないので、別のルートなのだろう。
 獲物を取られ、余計なタイミングで余計なことを、と苦々しく思ったが戦闘は楽になった。聖族を恐れず闇の魔法も弱点とならないとなれば、物理的な方法か原始的に焼くしかない。
 大剣をふるい飛び掛ってくる群れを切り開き、巣へと前進する。
 そのとき後方で何名かの悲鳴が上がり、振り返ると炎から逃れた魔物が回復を担う者に襲いかかり血をすすろうと噛み付いている。そしてその肌から溢れた血に煽られたように、他の飛び回っていた生き残りが群がった。
 周辺の数人がかけつけて魔法で焼き、デキウスは素手で蝙蝠のような皮膜の翼を破り裂き、皮膚に食らいついているものをはがす。傷は毒が入っているもののたいしたことがなかったが、もともと肉体の衝撃に弱いらしいタイプらしく、翼を震わせて泣いている。
「ここにいていいぞ。血のにおいで他の連中が来ても厄介だ」
 すなわち置いていく意のことをいうと、相手は縋りつくようにして置いていかないでくれと哀願した。
「ではお前たちで見ててやれ。必要ならば天上に回復にもどれ。日のあるうちに巣につかねば意味がない」
 どうにも役に立たなさそうだと判断したデキウスは舌打ちしたが、それがさらに相手を怯えさせる。指に食いこんだままぶら下がっていた魔物の翼を、面倒くさそうに手を振うと、座り込んだ相手に血しぶきが飛んだが詫びることもせず負傷者に背を向けた。背後でいつにも増して凄みのあるデキウスの態度にひそひそと怯えた会話が交わされる。
 デキウスはうんざりだというように地を蹴って空へ舞い上がった。
 いつもなら単独でもっと動きやすいのだ。それが二手に分かれて魔物の巣に向かうため、否応なく複数で行動していた。
 視界を遮っていた雑木の藪が開き、上空に白い大鴉が旋回しているのが見える。ではルベウスもここに辿りついているのだ。翼を畳み舞い降りたが他の者が一人もいないとはどういうことなのか。
 前方にはいかにも魔物が好みそうな洞窟が口をあけており、先ほどの目玉と蝙蝠を足したような群れが出入りしている。誰かがおびき出すか燻し出すしかないだろうと思ったとき、魔物の怒りの咆哮と地響きがして目の端に動くものがあった。
 ルベウスだ。右手の草陰に身を低くして膝を着いており、こちらを見ている。ジェスチャーで上を指し、洞窟のほうを指した。そして最後に待て、という仕種。
 上空を舞っていた白い大鴉が放たれた矢のように洞窟の中に飛んでいく。ルベウスの剣である大鴉が、魔物を追い出してくるという意味だ。
 ならば迎え撃つだけだ。弱点は腹部。頭のいただきを貫ければ動きを止められるとも聞いているが、デキウスの大剣ならば腹部を狙っていくほうが確実だ。
 デキウスは大剣を両手で捉えなおし、腰をおとして足を開き、じりっと左足を半歩下げた。魔物が飛び出してくるのをいまかと、恋人でも待つような期待感で見つめる。
 高揚する気分に思わず舌なめずりをして、「さぁ、来い仔猫ちゃん」と呟いた。
 ゴオォ、という大地の唸りと共に洞窟の入り口の岩が内側からめりめりと崩れ、耳を劈く唸り声と共に青白くぶよぶよと太って足が何本もある生き物が恐ろしいスピードで這い出てくる。大きさは長身のデキウスの2倍以上はあろうか。 太陽に弱いらしく、追い出された怒りと太陽のまぶしさに対するに怒りで無茶苦茶に暴れまわりながらデキウスのほうに突進してくる。
「誰かが見たら、怒りのあまり蒼白になりそうな醜悪さだ」
 その誰かは先ほどのところにいない。だがその行動に信頼はあれど疑問がないことに我ながら驚く。
 闇がデキウスの周りに集まり、楯となるが、果たして光に弱いこの魔物にどれほど耐えられるのかと頭に掠めたとき、正面から魔物の襲撃を受けた。
 片足をさらに引き、大剣を前でかざして全力でその重量を受け止める。
 若木がなぎ倒され、引いた足の踵でざりざりと地面が抉れる。弾き飛ばされぬようにするだけでも想像以上の力が必要だった。
 魔物に負けぬ声を食いしばった歯の間から漏らし、押し返して刃の一撃を見舞おうとしたときに、頭上から稲妻が、否、剣を振りかざしたルベウスが翼で体をひねらせると折りたたみ、勢いをつけて逆さまで落下すると剣を柄まで叩き込んだ。
 反動で魔物が反り返って後方の足で立ち上がる。
 すかさずデキウスは無謀に曝された腹を横に引き裂いた。
 ゴボゴボという音を立てて、粘液質の液体が溢れ出し、破裂するような勢いで文字通り頭から臓物を浴びる。
 デキウスの闇がその穢れを喜ぶかのように彼の全身にまとわりついた。
 魔物が倒れ、ジュウジュウと音を立てて日の光に焼かれるように朽ちてく。洞窟からは炎が溢れ出し、最後に白い大鴉が出てくるとルベウスの手元に剣として戻った。
 そして最後に魔物が倒れた場所に魔石とルベウスが叩き込んだ剣が残る。
 そこで初めて二人は緊張を解いて息を吐いて改めて顔を見合わせた。
「酷い有様だな」
 ルベウスは薄く笑うが、彼も似たようなものだ。まだ肌の白さが見えているだけマシだろう。
 一瞬の殺戮の緊張と高揚が、彼の目許にいつもにはない色を添えている。
 デキウスもこの戦闘のおかげで、先ほどの怒りは少しばかり凪いでいた。肩で顔の血を拭い「ほかはどうした?」とルベウスに尋ねる。
「負傷して戻ったのと、後方に置いてきたのと」
「そっちもか」


 デキウスが苦笑すると、ルベウスがつかつかと傍によってきた。血の高揚にあるときに、この間のような態度を取られたら本当にこの場で犯しそうな気がする。さすがにそれは、と身を引こうとした時に腕をつかまれて座れと命じられた。
 何だと思いきや、ルベウスの剣が一閃してデキウスの足首を狙う。
 ブーツの上から目玉の魔物が噛み付いていた。血が滲んでいる。
「気づかなかったな……。痛みもないが」
 ルベウスの剣に翼を刺しぬかれ、地面に釘付けにされてもがいているそれを、ルベウスは足で踏み潰した。
 貝殻を砕くような音がして、頭がつぶれた。ルベウスはそのまま滑らかな動きで膝をつきデキウスのブーツに手をかける。
「おい、大丈夫だ。舐めておけば治る、こんなもの」
 そうは言ったものの、毒で足首が腫れ始めていた。軽く痺れてもいるが天界に戻ればたいしたものでもないだろう。
 だがルベウスは肌が見えるまでブーツの紐を解いて下げると、何の躊躇もなくその傷に口をつけて吸ったのだ。唇がぴたりと傷口を覆い、舌が押し当てられて吸い上げられる。
 デキウスは火が触れたよりも素早い反応で肩を押し返し、腰が引けた。
 その反応にルベウスは何かまずかったかという顔をして、すぐに「すまない」と珍しく謝罪して口に含んだ毒を吐き、唇を拭った。
「不用意に肉に触れた」
 そっちじゃない、と言いたいのを堪え、
「本気にしたのか? 舐めておけば治るというのを」
「いや、それは比喩だろう? それぐらいわかっている。人はこうやって毒を吸い出していた」
 デキウスは腹の底から溜息をつく。あまりに配慮がなく、前途多難だ。
「デキウス……」
「何だ。俺は機嫌が悪い」
 機嫌が悪いという言葉にもひるんだ様子はなく、ルベウスはいつものように目を覗き込んでくる。
「来てくれると思っていたが、助かった。あの図体では私の剣では無理だからな」
 ルベウスはそう言うと満足げに少し笑い、羽が触れるような軽さで傷ついた足首を撫でて立ち上がった。デキウスはそこからエナジーが微量に流れ込んだのを感じる。
「お前が相手を立ち上がらせてくれなかったら、腹は裂けなかったろうよ」
 憮然としたままの口調でデキウスが答えたが、ルベウスの言葉は悪い気はしなかった。ブーツの紐が解かれたままなのを指差し、ルベウスに戻せと命じる。
 彼は眉を上げて呆れたというように肩をすくめたが、もう一度膝を突いて腫れた足を労わる様子もなく、ぎゅっと縛ってきた。
 デキウスは顔を隠すその長い髪にまた触れ、かきあげる。
「俺はお前に触れたいんだ、ルベウス」
「この前聞いたな」
「性的な意味でだ。わかるな? 無垢な下級天使じゃあるまいし」
 ルベウスが顔をあげ、両手の汚れを払った。
「抱きたいのか」
「そうだ」
「なるほど」
 ルベウスは興味のない話でも聞いてるような淡白さで頷き、立ち上がった。
「ではその気になるようにしむけてみろ。そこから考えよう」
「――はあ?」
 ルベウスがどこか意地悪く愉しむように片目を細めた。
「ちなみに抱かれる趣味はない」
 そういって珍しく声を立てて笑うと、深紅の翼を広げ舞い上がる。
「置いていくのか、この薄情者!」
「舐めておけば治るのだろう? 今日は随分穢れを浴びた。斎戒宮(ピュアファイ)で会おう」
 最後は皮肉を残して飛び去っていく。
 デキウスはまた溜息を吐いたが、すぐに笑い出しやがておかしくてたまらないというように大声で笑い続けると、仰向けに寝転がった。
 よかろう。そう言うならば抱いてくれと懇願するまでが勝負だなと呟き、最後にまた一つ絶望したように溜息を漏らした。

 

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