黒と赤

聖03 「静かに」「正面から抱き締める」。キーワードは「自分の部屋」


 生粋の聖族は消耗したエネルギーを回復するために休息はするが、基本的に神からの恩恵があるので、眠りを必要とはしない。旧神たちで聖族に加わった連中にも、アストラルに受けたダメージや、受肉している間に戦闘で受けた傷を早急に癒す恩恵はあるものの、彼らはかつて生きた習慣を護りたい者が多いようで、眠りというささやかな肉体的満足を得るために個別の住まいを与えられていた。聖界で過ごすにはアストラルでいるほうがエネルギーを消耗せず、肉体由来の衝動に悩まされることも無いのだが、眠りを奪うほど神は過酷でもなかったようだ。

 フィディウスの計らいでというよりも、他への影響を小さくするためかデキウスにも一人で寝起きするだけのためには十分すぎる屋敷と広すぎる部屋が与えられていた。討伐や降臨のために地上や冥界に出入りする場所に近いのは、デキウスがそう望んだからだ。

 装飾品らしいものはなく、色彩の無い部屋に寝台と机があるだけで、よほど禁忌なものを選ばぬ限り好きなものを置いてよいとは言われていたが、さてこの空間におきたいと思うようなものも思いつかない。そのおかげでいつまでたってもガランとした空虚さの抜けない部屋だった。

 まるで厚遇された囚人の部屋のようだ。それでも一人きりのときは物見高くひ弱に見える聖族たちの目から逃れて好きに過ごせた。
 身の回りの世話は、人の形も取れぬアストラル体が音もなく済ませてしまうので、血濡れた軍装を無造作に置いておいてもすぐに清められ清潔な状態に保たれている。それもデキウスには有難くなかった。
 討伐軍務がないときは書物庫で過ごすとよいとフィディウスに勧められたが、退屈の上塗りをするようなものだ。
 天上での生活で一番マシに思える討伐も、赤い翼の男がいないと妙に楽しみが減った。


 特に組んでいるわけではないが、同じ隊になることが多い。そして熾烈を極める戦闘の最後の最後まで残るのはデキウスと彼なので、自然と共同戦線を張ることも増えていた。しかも阿吽の呼吸で動くのだ。


 その彼も地上で人の間に生み出された芸術品を探す任とやらで、暫く見ない。
 ゆえにデキウスは倦んでいた。
 夜は聖界も静かだ。地上に比べれば月光も星も明るく、白夜に似ているが、それでも昼間の苛烈な光が溢れる空間よりも心地よい。
 そのとき、明らかに優雅に空を舞う聖族にあるまじき煩げな音を立てた翼の羽ばたく音が窓の外に聞こえた。あれはどう聞いても、墜落に抗うような乱れた音だ。
 興味を引かれぬわけがなく、窓から下を見下ろすと仄明るい夜の中でもそれとわかる深紅の翼の主が肉体を纏ったまま不様に座り込んでいる。
「ご帰還か?」
 揶揄うように声をかけると、乱れた黒髪をうるさそうに掻き上げ、ルベウスは上を見上げたが、デキウスと気づくと挨拶代わりに軽く手を上げて頷いた。
「邪魔はせぬ。多少ここで休ませてくれ」
「中に入れば良かろう? それともそれも禁止条項か?」
「いや――」
 ルベウスは大儀そうに体を起こすと、歩いてデキウスの部屋を訪れた。
「お疲れか」
 天上に戻れば神からの恩恵で傷も疲れも癒されるはずだが、当人は微苦笑を浮かべただけだった。翼もおさめずに、部屋の真ん中で気怠げに突っ立っている。地上ではこういうときに椅子を勧めるが、寛ぎを提供できそうなものは寝台ぐらいしかない。
「肉体が解けぬ。恐らく過剰に力を使ったのだろう」
 ルベウスはそう言うと、己の手を見つめた。指先が明滅しているところをみれば、部分的にアストラルに戻ろうとしているようだ。デキウスはとりあえず腕を組んでルベウスを頭の先から爪先まで観察する。疲れているように見えるが、怪我などは見当たらない。では何でそれほどに力を使ったのか。
「戦いでもないだろうに、美しいものとやらはそんなに骨折りの仕事か」
 ルベウスは乾いた笑いを立てると、酷く咽た。指の間から血が溢れ、床に落ちる。
 それをルベウスは眉根を寄せて見下ろした。
「すまぬな、やはり汚した。外にいれば良かった」
 言葉の割に謝罪の気持ちがまったく感じられない冷淡さだと苦笑しつつ、ルベウスの吐いた血の色に魅せられる。赤いせいではない。滴った血は、強烈な酸であるかのように煙を立てている。これは――。
「闇に染まったものを取り込んだな?」
 デキウスが眉を上げて呆れたという表情を見せた。
「浄化せねば持ち込めぬからな。だが存外……」
 もって行かれた、という言葉と咳が重なる。
「回復はしている。もう暫しすれば、問題ない」
 デキウスは「非礼を怒るなよ」と前置きをすると、おのれも肉体を纏い翼ごとルベウスに腕を廻して正面から抱きしめる。衣擦れのような音で翼が重なり、窮屈そうだ。
 ルベウスは怒るというよりも怪訝な顔をして、突っ立ったままの姿勢だった。
 デキウス本来の闇が、この場所にそぐわない闇の穢れを食っていくと同時に、触れた場所からデキウスのエネルギーが流れ込んでくる。
 それに気づいたのか、ルベウスは薄蒼い目を瞠る。
「ありがたい。回復が追いつく」
 安堵したような血のにおいの吐息と声がデキウスの耳を擽る。回復した影響で翼がアストラルになって消え、さらに腕を廻した体の距離が縮まった。強い抱擁だ。

 討伐の合間に戯れで廻すものと違い、はっきりと相手の肉体を意識できた。
 鍛えられた背から細身だがしっかりと筋肉のついた腰のライン、そしてそれに続く臀部。思わず指先で辿りたくなるのを堪え、抱擁を解いた。
 そんなデキウスの思惑を知って知らずか、ルベウスが間近すぎる距離のまま目を覗き込んできて薄く笑い、秘密を告白するように囁く。
「闇落ちした職人が作ったカメオが秀逸でな。無理をした。闇を吸収して持ち込めれば、神々がお喜びになる品となろう」
 そんなものはデキウスにとってどうでも良かったが、髪に指を絡めたところでルベウスの肉体がほどけてアストラルに戻っていくのは正直残念だった。
「世話になった。内密にな」
 ルベウスは悪戯げに言うと身を翻し、先を急ぐように出て行く。アストラルの緋い翼を再び広げ、力強く空へ舞い上がると暁光の中すぐに見えなくなった。 それを見送り、
「内密ね。言えるかって……」
 と呟くと、デキウスは足元に残された血痕を指先ですくいあげ、いつかと違い躊躇わずに口へ含んだ。

 

 

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